写真ニュース 今日の話題 街角から 青島ギャラリー 青島の味
 
要塞の中で育った都市

青島市社会科学アカデミーの張樹楓研究員が示す1枚の図には青島の要塞網が描かれている。砲台、トーチカ、兵営の遺跡は、現在の青島とはまったく違う姿、要塞の中で成長し始めた都市の姿を見せてくれる。

1996年、張研究員は、現在では愛国主義教育基地であり観光ポイントとなっている青島山砲台遺跡の修復開放作業に携わった。この砲台はドイツによる青島占領時期最大の海防砲台で、当時最も重要な砲台だった。砲台から東には太平山が遠望でき、山の下には中山公園がある。南には太平洋が、西には青島湾と信号山が望める。100年余り以前、ドイツ人は制海権を争うため、ここに砲台を築いたのだ。

張研究員が示すドイツ占領時期の要塞網の図には、海岸線に5つの砲台があり、青島山砲台はそのうちの1つだ。日独の開戦以前にはさらに多数の砲台が設けられた。トーチカも整備され、それは全長6キロにも及んだ。この5大砲台を、青島の人々は1号から5号砲台と呼んだ。

1898年以前、ドイツは20年もの時間をかけてアジアにおける海軍基地にふさわしい場所を探し、ついに青島を手に入れた。彼らにとって青島という植民地はまさに海軍軍事基地であり、政治経済の中心だったのだ。当時、軍事基地建設には青島に拠出した巨額の資金うち約半分が投入されたという。

そして、残りの半分はこの要塞都市のインフラ整備に使われた。当時、青島は2つのエリアに分けられ、ヨーロッパ人居住区と中国人エリアに分けての整備が進められたが、日本軍がやって来るのがあまりに早く、計画は未完成のままとなった。青島市が補完している資料では、ドイツのさまざまな都市計画が図面の上に残されている。

青島砲台の修復作業時に、張研究員は砲台遺跡をベースに要塞をテーマとする博物館の建設を、かつての神秘的な軍事施設を結ぶ地下トンネルをめぐる要塞観光ルートの整備を提案した。張研究員は、この要塞が青島における最も初期の、軽視できない歴史的特色なのだという。(李魏)

 

人民中国インターネット版 2011年8月4日

 

 
人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。
本社:中国北京西城区百万荘大街24号  TEL: (010) 8837-3057(日本語) 6831-3990(中国語) FAX: (010)6831-3850