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封建帝制に終止符

 

南京臨時参議院の成立大会に出席した参加者の記念写真(写真提供・南京総統府旧跡展覧部)
1911年10月10日、武昌蜂起が勝利し、風前の灯だった清朝政府にとって、致命的な一撃だった。樹立された湖北軍政府の矛先は真っ向から清朝政府の統治に向けられ、その後1カ月の間に、全国13の省と上海が相次いで独立を宣言し、武昌蜂起を擁護した。それまで日本や英国のようなブルジョア階級の立憲君主制を主張していた勢力も民主共和派に転向し、清朝官僚の「寝返り」を画策するようになっていた。清朝政府を支持していた外国勢力も、湖北軍政府と連絡を取り始め、新政府の彼らの在華利益に対する承認と保証を条件に、革命に暗黙の了解を与える態度に変化していた。

事態が急展開する中で、清朝政府は袁世凱に最精鋭部隊だった北洋軍の指揮を命じ、革命鎮圧のために武漢に派遣した。しかし、袁は清朝のために命がけで働く気はなく、この機会を利用して中国の大権を掌握しようと目論んでいた。その結果、北洋軍と革命軍は攻撃したり、しなかったりで、戦局は南北対峙の状況だった。

当時、膠着状態を打破するカギを握っていた人物は、軍事権を握っていた袁だった。11月26日、袁は英国公使と密議を図り、湖北軍政府に南北停戦和議を申し入れ、自ら政治を取り仕切る意思を示した。一方、12月25日、孫文が海外から上海に帰還し、各省革命党から推戴された。彼を臨時大総統に推挙しようということだった。1912年1月1日、衆望が一致する孫文は南京で就任を宣誓し、中華民国臨時政府の成立を宣言、1912年を民国元年と定めた。

孫文の臨時大総統執務室(写真提供・南京総統府旧跡展覧部)
民国の成立と孫文の臨時大総統就任は、清朝政府と袁世凱にとって、容認できる事態ではなかった。袁は部下に「死を賭して抵抗せよ」とわめきたて、革命派と再度開戦した。これに対して、孫文は北伐を指揮し、ある程度の勝利を獲得したが、財政困難で継続できなくなった。

最終的に、外国勢力の干渉の元に、南北双方で合意に達した。革命党は政権からの離脱に同意し、袁は「共和」の宣言に賛成し、清朝皇帝に退位を迫る、ということになった。皇帝の処遇問題で、袁は「優待条例」という優待条件を無造作に提示した。それは①清朝皇帝の称号は変えない②毎年、民国政府が400万元を支給する③皇帝はそのまま紫禁城で暮らす④私有財産は民国政府が保護する、などだった。これらの条件は完全な共和を追求してきた孫文たちにとって、この上もない恥辱だった。袁との妥協を主張していた南京臨時政府陸軍総長の黄興さえ次のように語り、憤慨した。「和議は見れば見るほど奇妙きてれつ、お笑いものだ。恥知らずにもほどがある」と。しかし、1912年2月6日、南京臨時政府は「優待条例」を承認した。

袁は南方革命党が権力移譲に同意したという確実な保証を見て、清朝皇帝の退位を求め、さもなければ、北京に進攻する、と迫った。2月12日、6歳の宣統帝愛新覚羅・溥儀はやむなく「退位詔書」を発布した。これによって、300年近く続いてきた清朝は滅亡し、2000年以上にわたった中国の封建帝制にも終止符が打たれた。

 

人民中国インターネット版 2011年10月10日

 

 

 
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