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武昌蜂起が共和革命に点火

 

国号を「中華民国」

10月11日未明、蜂起軍は湖北諮議局大楼の会議室に集まり、軍政府の設立及び都督の人選について議論した。呉兆麟は第21混成協の統領・黎元洪を都督に選任することを提案、立憲派全員が推戴した。黎は元々革命に不賛成だったが、革命派側は、当時、黄興、宋教仁が武昌に不在だったことと、孫武が爆弾事故で負傷、蒋翎武が逃亡中だったため、ふさわしい候補がいなく、黎を都督にする議案は通過した。

同日夜、戦略本部が設置された。同本部の主導で中華民国軍政府湖北軍都督府の成立を宣言、軍政府の檄文と「安民布告」を発表、国号を「中華民国」とし、清朝元号の宣統を廃止し、黄帝紀元を採用し、18星旗を軍旗と定めた。戦略本部は軍政府の名義で『布告全国電』や『通告各省文』などを全国に発信した。

10月12日、革命党が漢陽で蜂起、漢陽を革命勢力の支配下に置いた。その後、蜂起軍は漢口を攻略、武漢三鎮の全てが革命勢力の掌中に収められた。一方、鎮圧のため四川に派遣された湖北新軍にも11月に反乱が起き、派遣部隊の隊長が殺された。

 

 

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