中国の釣魚島、他人による 勝手な「売買」は断じて許さない

 

『人民日報』国紀平 

9月10日、日本政府は釣魚島及びその付属島嶼の南小島と北小島を「購入」し、いわゆる「国有化」を実施することを発表した。日本政府のこうした行為は中国の領土主権に対する重大な侵犯であり、中国政府と人民はこれに断固反対し、強い抗議を表明した。

一、 釣魚島は古来より中国固有の領土

(一) 釣魚島は中国が最も早く発見、命名、利用した

釣魚島及びその付属島嶼(釣魚島と略す)は、釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島などの島嶼からなっており、古来より中国固有の領土である。早くも1403年(明の永楽元年)に出版された『順風相送』の中には、福建から琉球への航路の途中に中国の島嶼「釣魚嶼」と「赤坎嶼」があると明確に記載されている。それは即ち今日の釣魚島と赤尾嶼である。

中国の明・清両代の朝廷は、24回にわたって琉球王国へ冊封使を派遣し、大量の『使琉球録』を残しており、比較的詳しく釣魚島の地形を記載し、赤尾嶼より東を中国と琉球の境界線だと定めている。1534年(明の嘉靖13年)、明の冊封使・陳侃が書いた『使琉球録』は、中国と琉球の海上境界が記載された現存する最も古い中国の公式文献で、「釣魚嶼を過ぎ、黄毛嶼を過ぎ、赤嶼を過ぐ。目接するに暇あらず。……古米山を見る。乃ち琉球に属する者なり。夷人(冊封使の船に乗った琉球人)船に鼓舞し、家に達するを喜ぶ」と明確に記載されている。つまり琉球人が船に乗り赤嶼(今の赤尾嶼)を過ぎ、古米山(今の久米島)を見ると琉球に着いたと思ったということで、これは、釣魚島及びその付属島嶼は琉球の国土ではなく、中国の領土だということを示している。

1719年(清の康熙58年)、清の冊封副使・徐葆光が著した『中山伝信録』では、八重山は、「琉球の西南極に属す境界」と明確に記載されている。福建から琉球まで「花瓶嶼、彭家山、釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼を経て、姑米山(琉球の西南方境界上の鎮山)、馬歯島を通る道を取り、琉球那覇港に入る」という記述がある。ここで言う「界上の鎮山」は、即ち琉球西南海上の境界にある主要島嶼だ。当時、琉球で権威のある学者であった程順則が、『指南広義』の中で同じような論述を行っており、時間的に『中山伝信録』よりもさらに早い。このことから、当時、中国と琉球は両国の海上境界と関連島嶼の帰属について非常に明確な認識を持っており、しかも完全に一致していたことが分かる。

(二) 中国は長い間釣魚島を管轄していた

早くも14世紀、即ち明の初期から、中国の海防将軍の張赫、呉禎は何度も兵士を率いて東南沿海を巡視し、倭寇を追い払い、「琉球大洋」即ち琉球海溝まで追撃した。そのとき、釣魚島などの島嶼はすでに中国が倭寇を制圧する海上の前線となっており、中国の海上防衛範囲に含まれていた。

1561年(明の嘉靖40年)、明の東南沿海に駐屯して防衛に当たった最高将校の胡宗憲が地理学者の鄭若曾と共同編纂した『籌海図編』では、釣魚島などの島嶼を明確に「沿海山沙図」に組み入れており、明の海上防衛範囲に含めていた。1605年(明の万暦33年)に徐必達らが描いた『乾坤一統海防全図』及び1621年(明の天啓元年)に茅元儀が描いた中国海防図『武備志・海防二・福建沿海山沙図』なども、釣魚島などの島嶼を中国領に含めている。清は明のやり方を踏襲し、引き続き釣魚島などの島嶼を中国の海上防衛範囲に入れた。

1556年(明の嘉靖35年)、鄭舜功は明の朝廷に派遣され日本を訪問した後、『日本一鑑』を書き上げた。その中で描かれた「滄海津鏡」という図には釣魚島があり、「釣魚嶼は小東の小嶼である」と記されている。「小東」とは、当時台湾の別称である。これは、当時の中国はすでに地理的な視点から釣魚島を台湾の付属島嶼と認めていたことを示している。清代の『台海使槎録』、『台湾府志』などの公式文書にも釣魚島の管轄について詳しく記載されている。1871年に編纂された『重纂福建通志』では、さらに釣魚島が台湾の噶瑪蘭庁(現在の宜蘭県)に属することを確定している。

(三)内外の地図とも釣魚島が歴史上中国に属していたことを証明している

1579年(明の万暦7年)に中国の冊封使・蕭崇業が著した『使琉球録』の中の「琉球過海図」と、1863年(清の同治2年)の「大清壹統輿図」などでは、いずれも釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼が明確に記載されている。

日本で最も早く釣魚島が記載されたのは仙台の学者林子平が1785年に著した『三国通覧図説』の「琉球三省並三十六島之図」であり、その中で釣魚島などの島嶼は中国大陸と同じ色で塗りわけられ、つまり釣魚島が中国の一部だと示されている。1876年に日本の陸軍省参謀局が作成した『大日本全図』、1873年に出版された『琉球新志』付属の「琉球諸島全図」、1875年に出版された『府県改正大日本全図』、そして1877年に出版された『沖縄志』の中の沖縄に関する地図などでは、いずれも釣魚島が含まれていない。

1744年に中国を訪れたフランス人のイエズス会修道士ミッシェル・ブノワ(中国名蔣友仁)が清政府の委託を受けて、1767年に『坤輿全図』を作成した。この図では中国の沿海部に閩南語(福建省、広東省と海南島の一部沿海地域で用いられる中国語の方言)の発音で釣魚島を表記している。1811年に英国で出版された『最新中国地図』では釣魚島を中国の領土と明記している。1877年に英国海軍が作成した『中国東海沿海の香港から遼東湾までの海図』では、釣魚島を台湾の付属島嶼とみなし、日本の南西諸島と明確に区別している。この地図はその後の国際往来の中で、広く使われてきた。

以上に書いているように、中国は遅くとも15世紀の初頭にすでに釣魚島を発見し、それを台湾の付属島嶼として管轄してきた。日本を含む国際社会はこの事実を認めていた。これは、釣魚島は決して「主がない土地」ではないことを意味しており、日本が主張するいわゆる「先占の原則」によって釣魚島の「主権」を取得したという論理は、歴史を隠そうとしてかえって馬脚を現すうそに過ぎず、反駁にも値しない。

二、日本による釣魚島の窃取は不法かつ無効だ

(一)日本が釣魚島に手を染めたのは19世紀末から

1879年、日本は琉球を併呑するとすぐ、拡張の手を中国の釣魚島にまで伸ばした。1884年、日本人古賀辰四郎は、自分が最初に釣魚島に上陸した人であり、「無人島」を発見したと称した。1885年9月~11月、日本政府は3回にわたって人を派遣し、釣魚島で極秘調査を行った結果、これらの「無人島」は『中山伝信録』に記載された釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼などの島嶼と同一島嶼で、すでに清国の冊封使の船には知られており、それぞれ名称もつけられていて、琉球へ航海するときの道しるべとされていたことが分かった。

1885~1893年、沖縄県は3回にわたって、日本政府に釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼を同県の管轄下に編入し、国の標識を建てるよう求めた。当時、中国国内では日本の上記行動に反応を示していた。1885年9月6日(清の光緒11年7月28日)付けの『申報』では、「台湾北東部の島に、最近日本人が日本の旗を掲げ、島を占領しようとしている」と指摘している。日本政府はこのような反応を気にせざるを得なかった。日本の井上馨外務卿から山県有朋内務卿への書簡で、「此際遽ニ公然国標ヲ建設スル等ノ処置有之候テハ清国ノ疑惑ヲ招キ候間差向実地ヲ踏査セシメ港湾ノ形状并ニ土地物産開拓見込有無詳細報告セシムルノミニ止メ国標ヲ建テ開拓等ニ着手スルハ他日ノ機会ニ譲候方可然存候」との意見を述べていた。それゆえに日本政府は当時沖縄県庁のこうした申請を認めなかった。この事実は『日本外交文書』にも明記されている。これは、当時の日本政府が釣魚島を欲しがってはいたが、これらの島嶼は中国の領土であることを十分に知っていたことを表している。中国の反応を恐れていたため、あえて行動を取ることを慎んだのである。

(二)日本は甲午戦争を機に釣魚島を不法に盗み取った

1894年7月、日本は甲午戦争を起こした。同11月末に日本軍は旅順口を占領し、清朝の敗戦は決定的となった。これを背景に、同12月27日に日本の野村靖内務大臣は陸奥宗光外務大臣へ書簡を出し、次のように書いている。「久場島(即ち黄尾嶼)、魚釣島(即ち釣魚島)へ所轄標杭建設ノ義ニ付」、「其当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付別紙閣議提出ノ見込ニ有之候條追テ御回答ノ節別紙御返戻有之度候也」としている。1895年1月11日、陸奥宗光はその提案を支持すると返事した。1月14日、日本内閣は釣魚島などの島嶼を沖縄県管轄下に編入するという閣議決定を秘密裏に行った。だが実際には、当時の日本政府は釣魚島などの島嶼にいかなる国の標識も建てておらず、沖縄の地理的範囲に関する天皇の勅令においても、釣魚島などの島嶼を明記していなかった。同4月17日に、中国は日本と不平等条約である「馬関条約」(「下関条約」)を締結し、台湾全島及び釣魚島を含むすべての付属島嶼を日本に割譲せざるを得なくなった。その時から1945年の敗戦まで、日本は釣魚島を含む台湾に対し、50年間にわたる植民統治を行ってきたのである。

(三)第二次世界大戦後、釣魚島は中国に復帰

1943年12月1日に、中、米、英三国が「カイロ宣言」を発表した。その中で、「日本が窃取した中国の領土、例えば東北四省、台湾、澎湖諸島などを中華民国に返還する。その他日本が武力または強欲によって奪った土地からも必ず日本を追い出す」と明示された。1945年7月に、中、米、英が「ポツダム宣言」を発表(8月にはソ連が参加)した。その中の第八条では、「『カイロ宣言』の事項は必ず実施されなければならず、日本の主権は必ず本州、北海道、九州、四国及びわれわれが定めたその他の小さな島の範囲内に限るとする」と定められている。同年8月15日、日本政府は「ポツダム宣言」を受諾し、無条件降伏を発表した。9月2日、日本政府は「降伏文書」の第一及び第六条において、「『ポツダム宣言』の各条項で定められた義務を忠実に履行する」と公言した。これによって、釣魚島は台湾の付属島嶼として、台湾とともに中国に返還されることになった。

(四)米日間の釣魚島に関するひそかな「管理権」の引き渡しは法的に許されない

1951年9月8日、米国と一部の国は、中国を排除した下で日本と「サンフランシスコ講和条約」を締結し、北緯29度以南の南西諸島などの島嶼を国連の信託統治下に置き、米国を唯一の施政者とする取り決めを行った。同9月18日、周恩来外交部長は中国政府を代表して、「サンフランシスコ講和条約」は中華人民共和国が準備、起草、調印に参加していないため、不法かつ無効であり、断じて承認できないという声明を厳かに発表した。そして、同講和条約が規定した米国が信託統治する南西諸島などの島嶼には、釣魚島及びその付属諸島が含まれていなかった。1953年12月25日、琉球列島米国民政府は「琉球列島の地理的境界」(第27号布告)を公布して、勝手に米国の信託統治の範囲を拡大し、中国領の釣魚島をその管轄下に組み込んだ。米国のこのような行為は、いかなる法的根拠もない。

1971年6月17日、米国は日本と「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定ともいう)」に調印し、琉球諸島と釣魚島の「施政権」を日本に「返還」することとした。中国政府と人民、及び海外の華僑華人は、これに強い反対の態度を表明した。中国外交部は厳正な声明を発表し、米日両国が公然と中国領の釣魚島を「返還地域」に組み入れたことを強く非難し、「これは中国の領土・主権に対する公然たる侵害であり、中国人民は絶対に容認することはできない」とした。

そのために、米国政府は態度を明らかにせざるを得ず、「もと日本から得たこれらの諸島の施政権を日本に返還するのは、関係主権についての主張にいかなる損害も与えるものではない。米国はこれらの諸島の施政権を日本に渡すことによって、日本が我々に委譲する前に持っていた法律的権利を増やすことが出来ないだけでなく、日本に施政権を返すためにその他の要求者の権利を弱めることもできない。……これらの諸島に関わるいかなる争議・要求も、すべて当事者が互いに解決すべき事柄である」と公に言明した。同年、米国上院の「沖縄返還協定」批准時に、米国務省は声明を発表し、米国は同諸島の施政権を日本に返還するものの、中日双方の諸島の領土権に関する争いにおいて、米国は中立的な立場をとり、紛争のいかなる側に対しても肩を持つことはしないと表明した。最近でも、米国務省は一度ならず「アメリカの政策は長期的なもので、いまだかつて変わったことはない。アメリカは釣魚島の最終的主権の帰属問題については立場を持っておらず、当事者による平和的な解決を期待する」と言明していた。

19世紀末、日本が中国領の釣魚島を盗み取ったことにしても、1970年代に米日が釣魚島の「管理権」をひそかに取り引きしたことにしても、みな中国の領土・主権に対する重大な侵犯であり、不法かつ無効である上、釣魚島は中国に属するという事実を変えることはできず、また、この事実を変えることはなかったことを事実は物語っている。

三、中国は釣魚島の主権を守るべく断固として日本と闘う

1972年の中日国交正常化と1978年の平和友好条約締結の過程において、両国の前世代の指導者たちは大局に着眼し、「釣魚島問題を棚上げし、今後の解決に待つ」という重要な了解と共通認識に達した。しかし、1970年代末以降、日本政府は双方の共通認識に再三違反し、何度も右翼が釣魚島に上陸し、「灯台」を建設したことを放置してきた。近年、釣魚島で中国の主権を侵害する日本側の行動は、日に日に公の色を帯びてきている。日本政府は「民間所有者」から釣魚島と南小島、北小島を「借り受け」、右翼が建てた「灯台」を「国有」とし、国民の戸籍を釣魚島に「登録」し、国連事務総長に釣魚島を「領海」に入れた海図を提出した。

日本の中国主権を侵害する行為に対して、中国は断固として力強く闘ってきた。外交面では、中国は直ちに日本に厳重な申し入れを行い、強力な対抗措置を取った。日本政府はやむなく右翼の釣魚島での行為に対して「支持せず、奨励せず、承認せず」という態度を取り、彼らを管理・制限し、島への上陸を禁じた。法律面では、中国は一連の措置を取り、釣魚島に対する主権を重ねて主張した。1992年2月、中国は「中華人民共和国領海及び隣接区法」を公布し、立法の形で釣魚島が中国の領土であることを改めて表明した。2008年五月15日、日本側が国連事務総長に釣魚島を「領海」に入れた海図を提出したことに対し、中国政府は事務総長に反対の口上書を提出した。2012年3月3日、中国は釣魚島及び一部の付属島嶼の公式名を公布した。2012年9月10日、中国政府は声明を発表し、釣魚島及びその付属島嶼の領海基線を公布した。同時に、中国の漁政監視船は釣魚島海域で常態化した巡視を行い、中国の海洋監視船も同海域の主権を守るべく巡視を行い、釣魚島及び周辺海域に対する中国の管轄権を行使している。こうした一連の措置を通じて、釣魚島を不法占拠しようとする日本の企てに強い打撃を与えた。

四、釣魚島に対する日本のいかなる企ても必ず失敗に終わる

今年に入ってから、日本政府は釣魚島問題において度々問題を起こしてきた。年初、日本政府は釣魚島及びその一部の付属島嶼を「命名」する茶番劇を上演した後、右翼が「島購入」と騒ぐことを黙認し、最後には表舞台に登場し、直接表立って釣魚島及びその付属島嶼である南小島と北小島の「購入」を宣言し、いわゆる「国有化」を実施した。

日本政府の目的はいわゆる「国有化」を通じ、釣魚島に対する「実効支配」を強化し、最終的に釣魚島を不法占拠しようというところにある。いくら日本政府が弁解しても、粉飾しても、この行為が人のものを「売買」しているという事実は覆い隠すことはできない。常識のある人なら誰でも分かるように、このような行為は荒唐無稽で、不法且つ無効であり、その思いどおりになるはずがない。

釣魚島問題における日本の誤った言動は、その根源が日本の一部勢力が軍国主義侵略の罪に対する正確な認識及び深い反省に欠けていることにある。その本質は、「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」などの国際法的文書によって確定された、戦後の日本に対する処分を覆す行為で、アジア・太平洋地域の秩序に対する蔑視であり、世界の反ファシズム戦争の勝利に対する否定と挑戦である。中国を含む周辺国との領土・主権争いに対する日本の扱いの中から、過去の侵略戦争と植民統治に対する心からの反省が少しも見られないどころか、隣国と摩擦を起こすことによって、侵略戦争の失敗によって受けた「損失」と面子を取り戻そうとする下心が露見している。

今年は中日国交正常化40周年という節目の年に当たる。両国の前世代の指導者たちは高所から、政治的知恵を発揮し、様々な困難を克服して、中日国交を回復させ、中日関係を正常な発展軌道に乗せた。ところが、今日、一部の日本の政治家が時代の潮流に逆らって、中日関係の根幹を破壊しようとしており、まことに憤りを禁じえない。中日関係が今日まで発展できたのは実に容易ではなかった。健全で安定した中日関係は、中国だけでなく、日本にとっても極めて重要である。我々は日本政府に、情勢を見極め、瀬戸際で踏み止まり、釣魚島における中国の主権を侵害する一切の行為を直ちに停止するよう忠告する。釣魚島の領土・主権を守る中国政府と人民の意志は確固不動たるものであり、我々には国家の領土・主権を守る決意と能力がある。釣魚島に対する日本のいかなる企ても必ず失敗に終わるに違いない。

 

 

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