忘れられない人々

 

李雪琴 安淑渠 陳憶青=文

李雪琴さん

陳憶青さん

安淑渠さん

『人民中国』で働いていた数十年間、共に仕事をした人は100人余にのぼりますが、彼らは各自の職場で対日報道のために青春を捧げ、それぞれに貢献しました。とりわけ『人民中国』に特別な貢献をした数人の功績は忘れられないものです。

康大川さん(1915~2004年)

康さんは日本で中・高時代を送り、早稲田大学を卒業した。1949年12月、彼は国際ニュース局に配属され、日本語グループの責任者、人事課の課長を兼任した。 

国際ニュース局は1950年1月に英語版の『人民中国』を出版した。これは新中国初の外国向けの刊行物で、1951年にはロシア語版も出版した。この2冊から文章を選び、翻訳者、編集者、デザイナーがいれば、立派な月刊誌を作ることができると康さんは考えた。その考えは、社(国際ニュース局は外文出版社と改名)の責任者と胡喬木氏、郭沫若氏、周恩来総理らの支持を受けた。 

刊行物を作るには、まず人を集めなければならない。康さんは瀋陽へ赴き、池田亮一さん、菅沼不二男さん、戎家実さん、林弘さん、岡田章さん、松尾藤男さんら日本人ジャーナリストと李薫栄さんという中国人女性を招聘した。また大連日僑学校の教師を務めていた劉徳有さん、さらに安淑渠さんら3人の女性を呼び寄せた。 

その時の東北の旅は、大収穫を得ての凱旋となった。康さんはすぐれた才能を持つ中国人と日本人の編集グループを作り上げただけでなく、日本語の文選工や植字工、さらに日本語の活字・印刷機材を持って帰ってきたのである。 

人員も設備も揃ったため、康さんは直ちにテスト版を作って、広く意見を募った。当時のベテランジャーナリストで、中国問題の専門家である岩村三千夫さんは、雑誌はよくできている、2000部は売れるだろうと太鼓判を押してくれた。1953年6月1日、『人民中国』(日本語版)が正式に発刊され、販売部数は発行部数をはるかに上回り、増刷した。

車慕奇さん(1925~1999年)

車慕奇さんは1950年に創刊した『人民中国』(英語版)の創刊者の一人であり、その後『人民中国』(日本語版)2代目の編集長となった。 

車さんは、記者として最も重要なのは、日々の生活を愛することだと考えていた。記者自身が感動してこそ、熱意が沸き起こり、他人を感動させる良い文章を書くことができると言っていた。 

車さんが心血を注ぎ取材したものとして、「シルクロード今と昔」が挙げられる。取材中、車さんは中国北西部の至る所に足を運び、現地の専門家や学者と数回にもわたる座談会を行い、また、開放されている莫高窟のすべての洞窟を訪ねた。昼は取材し、夜は翌日の仕事の準備をする。後に、陳舜臣さんと車さんの対談を読んだときはじめて、彼のこれらの作業は常に血圧が200にまで上がる状況で我慢を重ねて仕上げたものだということを知った。連載が掲載された後には、日本で「シルクロード観光ブーム」「敦煌観光ブーム」が巻き起こった。 

1991年、車さんは惜しくも一生奮闘を続けた職場を離れた。しかし、彼は悠々自適の休養生活に甘んじていなかった。退職後、大量の本を読破し、ツアーでイタリアを訪れた。帰国後、車さんは、情熱を込めてその旅行の収穫を語った。みんなが彼の大作がまた誕生するぞと期待している矢先、車さんは病に倒れ、入院してしまった。数日後、彼は記者としての筆を永遠に手放すこととなった。

李薫栄さん(1931~1967年)

李薫栄さんは、康大川さんが東北から「発掘」してきた人である。日本語グループに入ると、タイピストとなり、その後文字校正を担当するようになった。彼女は仕事熱心で、責任感が強く、文字校正の際はたとえ記号でも何一つミスを見逃さなかった。「校正者は辺境のパトロール兵士のように、注意力を高めて観察し、悪人は一人も見逃してはなりません。そうでなければ、失職します」と語った。彼女の校正ミス率はわずか25万分の1で、『人民中国』の校正の質が高く、当時の日本の出版界で大いに好評を博したのは、彼女の努力とも大いに関係すると言える。 

1950年代、『毛沢東選集』などの重要な出版物を発行した際、校正専門家の李薫栄さんはいつも指名されて校正を担当した。残念ながら、彼女は30歳余の若さで亡くなった。真面目にこつこつと、まったく手を抜くところがなかった彼女の精神を、誰もが偲んでいる。

李玉鴻さん(1933~1999年)

李玉鴻さんは日本から帰国した華僑で、『人民中国』(日本語版)でアートディレクターを務め、雑誌紙面のレイアウトを担当していた。李さんは日本語と日本文化に精通し、豊富な知識を持っていた。さらに日本人の生活習慣と読書習慣もよく知っていた。彼はしばしば雑誌の内容について自らの意見を出し、同僚から「最終審査員」と好意を込めて呼ばれていた。 

かつて「下駄」についての記事が掲載されたことがあった。それには日本人が下駄を履いている写真が付けられていた。どの段階の審査にもパスしたが、レイアウトの際に、李さんはこの写真は使えないと言った。その理由を彼は、「これは浮世絵の写真で、この下駄を履いた女性は遊女だからです」と説明し、トラブルを未然に防いだ。 

3000人の日本青年訪中のために編集・出版された図解ガイドブック『中国の旅』は、挿絵と写真に日本語の説明が添えられた中国のガイドブックだ。日本の若者に違和感を感じさせず、親近感を持ってもらうよう、すべての写真ページの説明は手書き文字になっている。この149ページの手書き文字の写真説明は、まさに李さんが一字一句手書きしたものである。彼は病を押して仕事を続け、酸素吸入の翌日も朝から出勤した。 

李さんは終始一貫して仕事熱心で優れた業績を残したため、「全国優秀ジャーナリスト」という最高賞を受賞した。不幸なことに、彼は肺気腫の魔手から抜け出すことができず、帰らぬ人となった。

池田亮一さん(1906~1963年)

池田亮一さんは、1952年に康大川さんが瀋陽で見つけてきたリライト専門家で、文章がとても上手く、小説やルポ、レポートなど、文学性がより高い原稿のリライトが得意だった。リライトの際、池田さんはできるだけ元の原稿を尊重し、なるべく手を入れなかったが、彼が直した原稿は明らかに輝きを増した。池田さんはすべての翻訳原稿に一字一句推敲を重ね、少しも手を抜かなかった。時には雑誌がもうすぐ印刷に入るという時になって、急により良い訳語を思いつき、あわてて印刷所に電話をかけて、校正係の同僚に指示して表現を直してもらっていた。彼はかつて日本人の友だちに、「私は『人民中国』を生涯の事業とし、この仕事に全身全霊を込めています」と語ったという。 

『人民中国』編集部はよく読者から、あるいは訪中した日本の友人から、雑誌の訳文が素晴らしいと言われた。すでに他界した日本文学者の竹内好氏は、彼の著作の中で「この雑誌の日本語について言うならば、実に素晴らしい。この素晴らしさは日本語の手本といってもよい」と書いている。 

1963年6月13日、『人民中国』が創刊10周年のパーティーを行った際、周恩来総理と陳毅副総理も出席した。康大川さんは池田さんをメーンテーブルに坐らせようとしたが、彼は「私がどうしてメーンテーブルに? 他の人に坐ってもらってください」と丁重に断った。しかし、康さんはやはり彼を周総理のそばに坐らせた。パーティーで周恩来総理は杯を挙げ、池田さんに感謝の意を表した。その後、池田さんは「人生で最も素晴らしい一日でした」と回想していたという。 

1963年10月28日、池田さんは倒れて人事不省になった。急いで病院に送られたが、すでに心臓は停止していた。享年57歳だった。 

廖承志さん、羅俊さん、趙安博さん、西園寺公一さんらが知らせを聞いて病院に駆けつけた。告別式で、陳毅副総理が主祭者として、以下のようなお悔やみの言葉を述べた。「池田亮一氏が生前、中国の社会主義建設と中日人民の友好という事業に尽くした重要な貢献は、永久にわれわれの心に残るであろう。世界人民の革命と中日両国人民の友誼に奉仕する精神は、賞賛に値する。われわれは氏が掲げた中日友好のたいまつを、子孫代々伝えていくべきだ」

菅沼不二男さん(1909~1983年)

康大川さんが瀋陽の『民主新聞』から招いたもう一人の日本人リライト専門家が菅沼不二男さんである。 

菅沼さんは論文や時事性の強い文章のリライトが得意で、例えば『政府活動報告』のような長い文章は、ほとんど彼が訂正、リライトしたものだった。1954年、『中華人民共和国憲法』が発表された後、『人民中国』はそれを日本語に訳し、付録の形で雑誌と共に日本の読者へ送った。菅沼さんは、昼は中国人スタッフと検討し、夜にさらに残業してチェックし、リライトした。ちょうど真夏のことで、汗まみれで仕事をしていた。ある時には、深夜まで残業したため、菅沼さんはいっそのこと帰るのをやめ、事務室の机の横にござを敷いて、服も脱がずに眠った。 

1961年8月、菅沼夫妻は25年間暮らした中国を離れ、9年間いっしょに仕事をした『人民中国』の同僚たちと別れを告げて、日本へ戻った。 

帰国後、菅沼さんは新日本通商株式会社の取締役会長、さらに日中旅行社を創立して、その社長を務めた。どんな仕事をやっても、中日友好に取り組むという初心は変えなかった。

戎家 実さん(1916~1977年)

戎家実さんは『人民中国』日本語版創刊者の一人であり、われわれと共に学び、仕事をし、1977年11月に逝去するまでの25年間、苦楽を共にしてきた。 

戎家さんは仕事の効率がよく、急な仕事があるたびに、康大川さんは彼にそれを任せた。一晩で1万字以上の文章を訳すようにいわれたこともある。彼は毎回喜んで引き受けていた。徹夜の翻訳で、目が充血し赤くなっていても、時間どおりに翻訳原稿を提出した。 

中国人スタッフの翻訳レベルはまちまちで、微妙にニュアンスが異なる原稿も多かった。このような原稿をリライトするとき、戎家さんは原稿が真っ赤になるまで訂正した。そして、その下訳をした人に熱心に教え、翻訳者を育成するための時間を惜しむことはなかった。 

当時、中国外文局に務めていた外国人専門家は、毎年半月の休暇と2週間の団体旅行を享受することができたが、25年もの間、戎家さんは一回もそれを使ったことがなかった。仕事が手放せなかったからである。 

1976年7月、唐山で強い地震が起こり、北京もその影響を受けた。防災小屋が建つまでの数日間、戎家さんは乗用車の中に避難した。ちょうど真夏で、狭い車内の中で、彼は汗まみれになりながら、依然として翻訳原稿のチェックに没頭していた。 

1970年、戎家さんに喉頭ガンが見つかった。治療によって好転したが、後に肺ガンで再入院した。その間ずっと、起き上がれなくなる日まで、リライトの仕事をやり続けた。1977年11月21日、この世を去った。

村山 孚さん(1920~2011年)

村山孚さんは、『人民中国』で計3回働いた。彼は、雑誌の総タイトル、見出し、構成、リード、写真、図表、地図などの要素をとりわけ重視し、生き生きとした紙面で読者の目を引くように努力した。編集長から業務関係者まで、テーマ選択、原稿、訳文、写真について彼のところに相談に来る人が相次ぎ、彼の多くの時間はその相談に費やされた。そのため、日中完成できなかった訳文を持ち帰り、夜に終らせることもしばしばで、時間通りに印刷所へ原稿を回すために、週末も仕事に費やし、時には深夜2、3時まで働いた。仕事は大変でも、村山さんは熱情にあふれていた。「これらの仕事はみんな好きだからやっているので、きついにはきついが、少しも疲れを感じません」とよく言っていた。 

ある日、村山さんは北大荒(黒龍江省の三江平原一帯)にある黒龍江85農工場で、農場の生産と建設、労働者の生活などについて取材した。彼は自ら農場、工場、労働者の家へ取材に行くことにこだわり、また労働者との懇談会を開いた。自分の目で見て書いた文章こそ説得力があると考えており、朝6時から夜10時まで取材を続け、「僕の文章は足で書いたものです」と語った。この言葉は後に『人民中国』の記者と編集者の座右の銘となった。

金田直次郎さん(1951~2012年)

金田直次郎さんは『人民中国』で二度、翻訳とリライトの仕事に携わった。 

1982年3月、初めて中国に来た金田さんは30代前半の若者で、元気いっぱいで、柔軟な考えをもち、親切で誠意があり、仕事に対して真面目で責任感があった。日本人専門家の中でも、彼は少壮派だったと言える。 

1984年、日本の青年3000人が中国政府の招きに応じて訪中することとなった。このイベントに合わせて、『人民中国』では、中国旅行ガイドブックの編集・出版を行うことを決めた。 

このガイドブックは主に日本の若者に向けたものだったので、金田さんは全体の企画から日本語で写真説明を書くまでを担当した。2月3日、金田さんはガイドブックの企画を完成させ、8月の出版予定だったので、編集期間はわずか5カ月だった。この半年の間、金田さんは週末も休まず、仕事が山場を迎えると、昼ご飯も事務室に持ち込んで、休み時間も仕事を続けた。 

『中国の旅 イラストガイド』が予定通りに出版された後、中日双方の好評を博し、中国外文出版発行事業局(外文局)に「特等奨」を授与された。 

1991年、金田さんは帰国したが、依然として『人民中国』を気にかけ、『人民中国』の社員が日本へ研修に行くたびに、必ず会いに来てくれた。話題はずっと『人民中国』についてだった。 

2010年の春、金田さんは再び招かれ『人民中国』にやって来た。ちょうど上海万博の開催に際して、『人民中国』が『週刊万博』(日本語版)の出版作業を引き受けた時のことである。金田さんは直ちに全力をあげてこの仕事に取り組んだ。中国人スタッフと一緒に取材、撮影、原稿書き、翻訳を行って、計26号の編集作業に携わり、読者からの好評を博して、外文局に表彰された。 

その後、金田さんは再び情熱に満ちあふれ、『人民中国』誌の仕事に取り組んだ。 

2011年、中国共産党成立90周年に合わせて、「革命史跡を訪ねる」という連載を行うこととなった。金田さんは中国人スタッフと一緒に、上海から井岡山、遵義、延安、西柏坡、北京までを取材し、6回の連載を書き上げた。 

金田さんは勤務時間終了後、いつも事務室に残り、若い中国人スタッフに日本語を教えた。彼は「中国滞在の日々をとても大切に思っており、すべての熱情を傾け、積極的に仕事に取り組みたい」と何度も言っていたが、その言葉は彼の行動によって証明された。 

しかし、1年後、金田さんはすい臓ガンを患い、2011年9月、治療のために帰国し、2012年2月4日に他界した。

 

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