独自技法を確立した先人

 

宜興には6500年余りに及ぶ製陶の歴史があり、新石器時代から現在までそれは途切れたことがない。紫砂は人々に掘り出された後、幅広く製陶に応用されるようになった。1970年代、南京大学考古学部の蒋占初主任のチームが宜興を訪れ、北宋時代(960〜1127年)にすでに紫砂の陶器が存在したことを発見したが、当時の紫砂陶器は茶を入れるためのものではなかった。明代になり、明の太祖朱元璋(洪武帝、在位1368〜1398年)が茶の飲み方を改革し飲む習慣を広め、茶樹栽培を奨励した。宜興は茶の一大生産地であったため、陶器と茶がここで結びつき、時運に応じて紫砂の茶壷も誕生したのだった。

伝えられるところによると、明の正徳年間(1506~1521年)に、科挙を目指す学生だった呉頤山は宜興の金砂寺に仮住まいして勉強していた。彼の童僕の供春は寺の僧侶に茶壷の作り方を教わり、自ら改良を加えた。彼が作った「樹癭」と呼ばれる木のこぶをかたどった紫砂茶壷は古風で飾り気がなく魅力的で、当時の文人たちに深く気に入られ、「供春壷」と呼ばれた。これによって供春は紫砂茶壷の始祖とされている。

以来、もともと日用的機能を持っていた紫砂の茶器には芸術的価値が加わり、文人墨客に愛されるようになった。彼らの影響で、紫砂の工芸技術やそれが持つ文化も高められ、文人気質を有する特殊な陶芸品となっていった。

明の万暦年間(1573~1620年)の時大彬は文人であるばかりでなく、茶壷製作の巨匠でもあった。彼は原料である紫砂の特性や茶を入れる場合に必要なことがらを根拠とし、文人の交わりにおける理念をもとに、紫砂茶壷の今日のスタイルを作り上げた。また、彼は宜興独特の手工陶芸技法を「片築法」としてまとめ上げた。

片築法は伝統的な手びねりや、ろくろを使い形を整える方法と違い、粘土の素地を槌でたたいて平たくし、製作する陶器の形状と大きさに基づき裁断して「泥片」の状態にした後、必要な形に成形していき、最後に再度たたいて各部をつなぐ技法だ。この方法で作られた陶器の本体は土の密度が高く、焼成時に簡単に変形することがない。宜興の紫砂陶芸職人たちは先人が伝えたこの技法をさらに細分化し、一種独特の工芸技法を形作った。素地をたたき、各部をはめ込み、たたいて形を整える成型法による手工陶器製造技法は宜興紫砂工芸の伝統技法として今に伝わっている。

 

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