水戸徳川家の墓所に眠る

 

水戸市内にある朱舜水の銅像(写真・呉亦為)

 茨城県常陸太田市瑞竜山は、水戸徳川家歴代藩主14人が眠る墓所だ。山深いこの地には古木がそびえている。山頂に向かう道には、いくつもの敷石の小道が網の目のようにめぐらされ、各藩主の墓を結んでいる。山の中腹まで登ったところに水戸藩第2代藩主徳川光圀の墓がある。正室の墓と並び、墓碑は螭首亀趺(亀の胴体に竜の首)の台座の上に置かれている。

徳川ミュージアムの責任者・田所良二さんによると、この螭首亀趺の墓石設計は典型的な儒教様式で、日本では珍しいものだという。それでは、徳川光圀はなぜこれほど深く儒教の影響を受けたのだろうか?

山道を下りて、さらに山深い場所を訪ねていくと、「明徽君子朱子墓」という碑文が刻まれた墓石が現れる。この墓は徳川光圀が、師と仰いだ朱舜水のために建てたもので、碑文は光圀自ら揮毫したものだ。水戸徳川家墓園には14人の藩主以外には、光圀の伯父にあたる武田信吉と生母の谷久子が葬られているだけだが、ここに徳川姓でないどころか外国人の朱舜水が一族と共に埋葬されているのだ。光圀がいかに朱舜水に深い感情を抱いていたかが見て取れる。

徳川光圀は「黄門」と別称で呼ばれるほど日本人には親しみのある歴史上の人物だ。連続テレビドラマ『水戸黄門』などで、日本各地を漫遊する勧善懲悪の物語は誰もが知っている。歴史資料に全国を漫遊したという記載はないが、それでも最も知名度が高く、大きな功績を残し庶民に愛された君主であることは事実だ。光圀は朱舜水の影響を深く受け、儒学を高く評価し、彰考館を設立し、『大日本史』を編さんし、水戸学の基礎を築いた。晩年は現在の常陸太田市内の西山荘に隠居した。

その徳川光圀の業績は、朱舜水抜きには語れない。1659年、朱舜水は日本に逃れ、長崎に9年住んだ。柳川藩士安東守約が彼を慕い「老師」と呼んで、自らの俸禄の半分を彼のために差し出した。その後多くの儒学者が彼の門下となった。そして1665年、徳川光圀の招きに応じて朱舜水は江戸に赴き、講義を行うと同時に中国の先進的な農業、医学・薬学、建築、工芸などを日本の民衆に伝えた。

徳川光圀は朱舜水を師と仰ぎ、尊敬し、彼から学んだことは、その当時の彼の功績につながっただけでなく、後の世に大きく深い影響を与えた。梁啓超はこの点を高く評価している。徳川光圀は『大日本史』を編さんし、尊王統一の義を唱えたが、大政奉還、廃藩置県など明治維新に光圀の『大日本史』は大きな役割を果たしており、そこには朱舜水の大きな影響があったというのだ。

1682年、朱舜水が83歳で亡くなると、光圀は彼を徳川家の墓所に葬った。1691年、光圀は常陸太田市の西山荘に隠居したが、庭を造営する際にも朱舜水の教えを忘れなかった。光圀は、庭の中央に「心」の形をした池を掘らせたが、書斎の竹の丸窓から見ると、「心」の字は鏡文字になっているのだ。人の心は表面だけを見るのではなく、裏側の深い部分を推察することがより重要なのだという朱舜水の教えを心に刻んだ光圀は、「心」の字の裏側が見えるように池を設計したのだった。

 

人民中国インターネット版 2014年6月

 

 
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