庶民の身近に生き続ける

 

常陸太田市では朱舜水の名は誰もが知っている。水戸市の街頭には朱舜水の銅像も立っており、地元の人々は彼を重要な歴史的人物と位置づけている。しかし、水戸を離れると、彼の名はそれほど人に知られているわけではない。それでも、つぶさに調べてみると、実は日本の多くの景勝地に彼の足跡が残されている。さらには、庶民生活の身近にも朱舜水の影響が残っているものさえある。

東京文京区小石川後楽園はかつて水戸徳川家の庭園だった。ここには梅、桜、ツツジなど3000株以上の植物があり、花見や紅葉の名所として知られる。実は、朱舜水はこの庭園の設計にも関与している。庭園内の随所に中国の名勝から命名された景観がある。西湖、廬山などがそれで、古くから「中国情緒あふれる深山幽谷」とたたえられてきた。後楽園の名は徳川光圀が朱舜水から教えられた北宋の文学者范仲淹の『岳陽楼記』の中の名句「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」(天下の憂えに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ)の言葉から取られている。このほか、東京大学農学部キャンパス内には「舜水先生終焉之地」の石碑が立っている。学業成就の聖地東京お茶の水の湯島聖堂は『学宮図説』に基いて建設されており、ここにある孔子像も朱舜水が中国から運ばせたものだ。

さらに、朱舜水が日本人の生活にもたらした影響について触れるなら、ラーメンを持ち出さなければならない。ラーメンを知らない日本人はいないだろうし、日本のラーメンはすでに世界的に知られるグルメになっている。ところが、ラーメンの起源となると、知っている人は多くないはずだ。実は、新横浜にあるラーメン博物館にその答えがある。そこには、徳川光圀が日本で初めてラーメンを食べた人物であり、彼にラーメンを紹介した人物こそ朱舜水であると紹介されているのだ。光圀は麺類が好きで、いつもうどんを食していた。ある日、光圀は朱舜水を招いて自らの料理の腕を披露したが、朱舜水はお返しにと、中国式のスープそばを光圀にふるまった。それは中国ハムをベースにしたスープに、ネギ、ショウガ、ニンニク、ニラなどを加えたもので、これが日本のラーメンの元祖だと言われている。

 

常陸太田市にある西山荘は、徳川光圀が晩年に隠居生活を送った場所だ(写真・呉亦為)

 

人民中国インターネット版 2014年6月

 
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