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古代から水陸で南北結ぶ

 

 

五つの省に通じる

 

徐州駅から北西に2キロほど、黄河旧河道沿いにある黄楼公園内には、1基の牌坊(鳥居形の装飾門)が立っており、牌坊の北側の扁額には「大河前横」、南側には「五省通衢」と書かれている。史料の記載によれば、この牌坊は清の嘉慶23(1818)年に河道総督の黎世序が建てたもので、東西に流れる黄河旧河道に面していることから黎総督は「大河前横」の4文字を書いたとされる。光緒9(1883)年、この地の行政長官だった徐州道尹の趙椿平が修築した際、南側に「五省通衢」と書いた。なぜこの4文字だったのか? 実は、元代に北京が都に定められると南北を貫く京杭大運河は改修された。運河の中ほどに位置する徐州は東西南北の水運中継地となり、河北、山東、河南、安徽、江蘇の5省に通じる重用な交通の要害となった。「衢」は四方に通じる道の意味だ。

 戸部山古民家群の余家大院

史料によれば、1855年に河川改修されて北に移る以前、黄河は徐州の市街地を貫いて流れており、大運河ともここで交わっていた。南北を結ぶ位置にある徐州は名実共に水陸の交通の要衝となっていたのだ。明朝政府はこの点を重く見て、徐州防衛のため多数の兵を持つ参将(副将に次ぐ官位)府と、按察分司(司法機関)、戸部分司(戸籍財経管理機関)、工部分司(工事管理機関)などの重用な政府機関を置いた。また、水路で首都に輸送する食糧を備蓄する広運倉もここに設置された。当時の徐州は民間の船による食糧輸送の中継地として、また官兵の輸送地として、船や車が集まり、交易で栄えた。徐州はこうして京杭大運河の重用な港湾都市となり、水運の中枢であり、また商業都市であるだけでなく、軍事の中枢ともなったのだった。

天然の水利資源は徐州に大きな繁栄をもたらしたが、しかし同時にこの歴史ある都市に問題も突き付けた。当時、この都市を貫いていた黄河はたびたび決壊し、水害は現地の人々にとって最大の脅威となっていた。北宋年間(960~1127年)、徐州知事となった蘇軾(蘇東坡)は軍民を率いて洪水対策を行った。黄楼公園内には当時蘇軾が洪水対策で建築した黄楼と、清代に造られた鎮水鉄牛が残されており、そこからは徐州の人々の洪水に対する不屈の精神を感じることができる。

現在、徐州駅から南西に2キロほどの場所に戸部山と呼ばれる小高くなった場所があり、この戸部山を取り巻くように、明・清代から民国時期にかけての建物が並ぶ。完全な形で屋敷が保存されているものは20軒余りを数える。かつて、ひんぱんに水害に見舞われていた頃、戸部山はその地勢から被害を免れていた。1624年、徐州戸部分司の主事張璇は洪水の被害を逃れるためにこの山の上に引っ越した。それに続いて権勢を持つ役人や大商人、有力者が次々とこの地に移り、ここは金持ちが争って邸宅を構える場所になっていった。その後、戸部山に住むことは地位と富裕の象徴となり、「貧乏は北関、豊かなら南関、金持ちは戸部山に住む」という言葉は今日まで言われ続けている。

 

項羽と劉邦が争った地

 

 戯馬台の遺跡に立つ項羽の像

 戸部山には、明清代の家屋が秦代の遺跡を取り巻くよう建てられている。この遺跡はかつて楚の項羽が当時彭城と呼ばれたこの地を居城とした時に、軍馬の訓練を視察するために建てた戯馬台だ。紀元前206年、秦の滅亡に際して、項羽は先に秦の都咸陽に入った者を漢中王とするという劉邦との約束を反故にし、自ら西楚覇王を名乗り、ここ彭城を都に定めた。

劉邦は沛県郡豊県中陽里(現在の徐州市沛県と豊県)の生まれで、陳勝・呉広の乱が起きると、同郷の人々を集めこれに呼応し挙兵した。その後彼は項羽の叔父にあたる項梁の軍に合流し、秦を攻めた。秦の滅亡後、覇上に兵を駐屯させたが、項羽は咸陽郊外の鴻門に宴席を設け、そこで劉邦を殺そうとした。危機を逃れ覇上に戻った劉邦は、そこから項羽と5年に及ぶ戦いを繰り広げた。こうして「鴻門宴(鴻門の会)」という言葉は、下心を持つ宴会を意味して使われるようになった。

紀元前202年、劉邦が率いる漢軍は彭城に退いた項羽を追撃した。斉王韓信は30万の兵を率いて項羽の退路を断ち、諸侯の軍も項羽を取り囲んだ。徹底的に項羽を追い詰めるため、韓信は九里山に「十面埋伏」し、楚の軍を袋のネズミにした。夜になり、項羽を取り囲んだ漢軍は楚の歌を歌い、項羽の兵たちに故郷を思い出させ、戦意を喪失させた。項羽は勇敢に囲みを突破したものの、部下は減り続け、項羽は自ら首をはねて命を断ったのだった。これは中国では誰もが知る歴史物語で、項羽と劉邦の決戦は「垓下の戦い」と呼ばれ、「十面埋伏」「四面楚歌」「覇王別姫」などの言葉の由来となっている。

 九里山北麓で見つかった亀山漢墓

この故事に出てくる「九里山」は徐州の北西部にあり、東西に長さが9里あるということでこの名がついた。交通の要衝であるため、徐州では古くから争奪戦が行われてきた。そして、徐州をめぐる攻防戦は、多くは九里山付近で行われた。『水滸伝』第3回の中では九里山の古戦場について「九里山の前方には戦場が広がり、牧童が古い刀や槍を拾う。順風が烏江の水に吹く様子は、覇王別姫のようだ」という民謡が歌われ、九里山の戦略的役割を言い表している。

軍事的意義から見ると、九里山は徐州の天然の障壁だが、九里山の最も注目すべきハイライトは長く伝わる漢文化の味わいだ。項羽を打ち破った劉邦は山東の定陶で皇帝に即位し、長安を都と定め、漢王朝の基礎を築いた。漢の高祖劉邦が身を起こしたことから前漢が成し遂げた覇業まで、あるいは劉氏一族が代々ここに封ぜられたことまで、九里山は歴史の証人であり、前漢盛衰の縮図となっている。九里山には亀山漢墓、火山漢墓、天斉漢墓のほか、新たに発掘された架山・蘇山漢墓群が集中している。それらの不思議な景観を持つ墓穴や甬道(通路)、生き生きとした彩色の兵俑、絵が刻まれた漢画像石は、帝王や将軍、大臣などのぜいたくな暮らしを表すと同時に、当時の工芸技術の高さや人々の英知を今に伝えている。

 

 

 

人民中国インターネット版 2015年6月