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考古学者を悩ませる

 

獅子山楚王陵から出土した兵馬俑は秦代のものとは違った特徴をもっている

漢の高祖劉邦は皇帝となった翌年に異母弟の劉交を楚王に封じ、彭城を都として薛郡や東海など36県を管轄させた。これより、楚は劉氏皇室の重用な冊封国となり、楚王は前漢が王莽によって簒奪されるまで12代続いた。こうした背景のため、徐州には歴史的文化財が豊富で、漢墓、漢兵馬俑、漢画像石が徐州の「漢代三絶」とされる。漢墓はその中でも最も貴重で有名なものだ。

漢と楚が戦った九里山古戦場にほど近い亀山の西の麓に、亀山漢墓はある。この墓は前漢の第6代楚王劉注(在位は前128~前116年)夫妻の合葬墓で、1981年に地元の人によって発見された。発掘調査が行われてからすでに30年余りが経過しているが、それでもこの墓には多くの謎が残されている。

亀山漢墓は二つの墓が並ぶ夫婦の合葬墓で、南側は劉注、北側が夫人の墓だ。墓道と墓室の総面積は700平方メートル、容積は2600立方メートル、山を開削して造られている。墓内には2本の南北に延びる墓道が並び墓室内部に通じている。その長さは56メートル、高さ1.78メートル、幅1.6メートルとなっている。2本の墓道の間隔は19メートルでその夾角は20秒(1秒は1度の3600分の1)、平行に対する誤差は1万6000分の1という正確さだ。当時の土木技術水準から考えると、この精度は想像し難いほど正確だ。このほか、亀山漢墓は開削にあたって山全体をほぼすっぽり繰り抜いて造られている。当時の職人がどのように山全体の土質、石質、構造を把握し、滞りなく工事を行ったのかはまだ解明されていない。

亀山漢墓の外部は、多くの長方形の巨石が積まれ、2本の墓道をふさいで盗掘を防いでいた。それぞれの巨石は約7トンあり、上下2層で墓道をふさいでおり、動かすのは極めて難しかった。亀山漢墓博物館のスタッフによれば、墓はかつて盗掘されているが、盗掘者は1層の巨石を運び出したのみだった。漢墓の発掘当時、墓石の除去作業は人民解放軍の協力で行われたのだが、現代の技術と機器を駆使しても巨石をすべて整理するには3カ月を要した。科学の発達していない2000年余り以前に、どのようにして巨石を墓道に運びびっしりと2層に積み上げたのかは、今も人々を悩ませる謎になっている。

亀山漢墓には全部で15の墓室があり、その中でも最も神秘的なのは楚王の棺室内にある「影」だ。棺室の北の隅の壁に黒くなった部分があり、それは古代の服を着た老人が拱手して客を迎えているように見える。スタッフによれば、1981年の発掘時にはまだなく、一般公開2年目の1994年に出現したという。「影」の色は年々深まったが大きさに変わりはなく、これもいまだ解けない謎となっている。  

 

人民中国インターネット版 2015年6月