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伝統武術受け継ぐ沛県

 

生徒を厳しく指導する鄧守超さん(右)

 歴代の武将が争奪目標とした徐州は「武」の1文字と密接な関わりを持っている。史料の記載によると、高祖劉邦は蜂起して秦を倒す前、人々を率いて徐州北西の故郷・沛県で武芸の稽古をした。紀元前196年には、謀反を起こした諸侯の英布を討伐した際、遠回りして沛県に立ち寄り、1000人以上の同郷の武芸者を連れて帰った。これ以降、沛県では武芸を学ぶ者が日に日に増えていったという。また1977年には、沛県から20キロの栖山の南で漢墓が見つかったが、出土品には人々がやりや剣を手に舞い踊ったり、帯剣して弓を持ったりしている図案が刻まれたものがあった。漢代に沛県の人々の間で武術がとても流行していたことが見て取れる。『沛県志』は沛人について「武を尊び活力にあふれている」「自衛のために帯剣を好む」と記している。

沛県では武芸を学ぶことが一つの風潮になっており、義侠心に富む者も少なくなかった。元・明の時代、京杭大運河が徐州を通るようになると、南から北へ食糧を運ぶ商船は安全のため、武芸に秀でた沛県人を用心棒として好んで雇うようになった。明末・清初の時期、反清の義士・閻爾梅は髪を下ろして僧侶になり、嵩山少林寺(河南省登封)を反清活動の拠点とした。清政府の追跡から逃れた閻爾梅は故郷の沛県に戻って団練(住民の武装自衛集団)を組織し、同郷人を率いて武術を稽古した。清末・民初に沛県は近代武術活動のピークを迎えた。この時期、沛県では梅花拳や大洪拳、少林拳などの拳法の流派が林立し、村々には武芸を学ぶ者が必ずいた。

現在、沛県の武術には内家拳や外家拳などの12大流派がある。しかし社会の発展に伴い、伝統武術の型を学ぶ人は減りつつある。伝統の型は口頭や以心伝心で継承することが多く、指導者によって変化していくため、数多くの流派にも決まった形式の図解資料はない。また一部の流派の代表者は高齢になって体が弱り、若手指導者は一時的に足りなくなっており、沛県の伝統武術の型は伝承が途絶える危機にひんしている。伝統武術を継承していくため、徐州の教育局と体育局は2014年、小、中、高校で武術を体育の必修科目にするプロジェクトを始めた。 

 

 

人民中国インターネット版 2015年6月