泮溪酒家

 

早朝6時過ぎ、広州旧市街にある泮溪酒家の前には、営業開始を待つたくさんの人々が立っていた。大多数は60~70歳の高齢者である。7時、店が時間通りに開くと、昔からこの付近に住んでいる彼らは店内にどっと押し寄せ、自分のお気に入りの席にまっすぐ向かう。席に着くと、まずお茶をいれる。急須を持ち、茶葉をつかみ、お湯をそそぐ様子は、気兼ねがなく、まるで自宅にいるようだ。 

広州の人々は、朝・昼・夜、1日3回の飲茶の習慣を持つが、なかでも朝の早茶に最も手間をかけている。早茶は、ただ鉄観音やプーアル茶を飲むというような簡単なことではない。ここで「茶」は脇役でしかなく、各種の点心や料理、お粥が本当の主役なのだ。叉焼包(チャーシューまん)、焼麦(シューマイ)、腸粉(クレープ状にした米の粉で肉などの具を巻いたもの)、鳳爪(ニワトリの足)、糯米鶏(もち米と鶏肉を蒸したもの)…。蒸し物、炒め物、煮物、揚げ物、おいしくて見た目も美しく、バラエティーに富んでいて、広州の早茶は何種類あるのか誰もはっきりといえないほどだ。飲茶には「嘆茶」という言い方もある。「嘆」は、ほっと一息つく、じっくり味わうという意味。つまり早茶は朝食と完全に同じものではなく、早茶において人々が重視しているのは、のんびりした生活を楽しむことなのである。 

広州人の飲茶の習慣は100年以上前までさかのぼることができる。清代咸豊年間(1851~1861年)、広州に「一厘館」と呼ばれる飲食店が登場した。入り口に「茶話」の2文字が書かれた看板を掲げ、木製のテーブルと腰掛けを置き、お茶と軽食を提供する。来店客はここで足を休めて世間話に花を咲かせた。その後、少し高級な「茶居」が現れ、ここでは飲茶にこだわり、点心もより手の込んだものとなった。この茶居が徐々に規模を拡大して「茶楼」になり、広州の人々は茶楼で早茶をとるようになったというわけだ。 

1947年創業の老舗である泮溪酒家は、泮塘(広州市茘湾区)にあり、近くに「泮溪」という小川が流れているため、この名前がついた。店内に入り、回廊を抜けると、緑の樹木が互いに重なり引き立て合う園林の風景が目の前に現れる。築山や魚がいる池、あずまやなどの建物も見える。もしセイロを持った店員が横を通り過ぎなければ、ここが飲食店であることを忘れてしまいそうだ。中国の伝統的なテーブルや椅子が置かれた個室に入ると、花鳥の模様が描かれた青いガラス窓に気がつく。この中国東北地方を起源とする窓は「満州窓」といい、清代に満州族の人々が広州に持ち込んで、一気に嶺南建築を代表する装飾となった。満州窓は、エッチングなどの工芸技法を施した色被せガラスを木枠にはめ込み、周囲に木製の透かし彫りを配置することにより、古色蒼然かつ精巧な美しさを醸し出している。 

バラエティーに富んだ色や形の点心は、泮溪酒家最大の特色である。同店シェフの羅坤氏は、広州で「点心の状元(大家の例え)」と称され、彼が創り出した「象形点心」は動物の姿をかたどっており、生き生きとしてかわいらしい。最も有名な「緑茵白兎餃」は、薄い皮でエビと豚肉の具を包みウサギの形にしたもので、本物のウサギにそっくりだ。同店の責任者によると、ある日本の友好代表団が泮溪酒家の評判を聞いて点心を食べに来た時、彼らの中から毎日ここで朝食を食べたいとの希望が出た。しかも、10日間、毎日10種類ずつ、重複しないようにしてほしいという。これは店側が100種類もの点心を作らなければならないということだが、なんとシェフたちはやってのけた。代表団の日本人たちは称賛してやまなかったという。 

異なる年齢層のニーズを満足させるため、泮溪酒家は新しい味を常に研究・開発し、例えばドリアン、ワサビ、ドラゴンフルーツなどを使ったお菓子を生み出している。お菓子のほか、同店の料理、お粥にも特徴がある。広州の早茶の代表的なお粥である「艇仔粥」は、泮溪酒家付近の茘枝湾一帯が発祥だ。昔、広州に暮らす人々はよく茘枝湾へ遊びに行き、遊覧船がひっきりなしに往来していた。中でも艇仔(屋根のある小舟)では艇仔粥を提供しており、その粥には魚、豚肉、油条(揚げパン)、ピーナッツ、ネギのみじん切りが入っていて、大変おいしく人気があった。たとえ時代が変わっても、昔ながらの味も新しい味も、泮溪酒家は広州の人々にとって味覚のよりどころであり続けているのである。

 

 

泮溪酒家

住所/広東省広州市茘湾区龍津西路151号

時間/7:30~21:30(早茶7:00~11:00)

交通/路線バス2、8、25番で泮塘駅下車

電話/(020)81722788

 

 

 

 

 

 

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