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2000年以上の建城史 | ||||||||
2000年以上の建城史 早朝の越秀公園は、緑が青々と茂り、朝もやに包まれていた。園内の至る所で広州の人々が体を鍛えていて、中高年に人気の羽根蹴りや社交ダンス、扇子踊り、気功の練習などの運動をしている人があちこちにいる。公園内の西側にある丘の上には、5匹のヒツジの石像がそびえている。最も高い場所にいるヒツジは稲穂をくわえ、頭を持ち上げて遠くを見つめている。足元には一対の互いに寄り添う小さなヒツジと、親子のヒツジがいて、母ヒツジは母乳を吸う子ヒツジを見つめ、慈母の愛にあふれている。 伝説に基づいて作られたこの石像は広州のシンボルであり、多くの観光客が足を止めて写真を撮る対象だ。その昔、広州一帯は数年続く災害に見まわれ、農作物が不作で庶民の生活は貧しく苦しかった。ある日、南海の上空に瑞雲が現れ、5人の仙人がきらびやかな衣服をまとって、口に稲穂をくわえた仙羊にそれぞれまたがって広州に降り立った。仙人は稲穂を人々に授け、ヒツジを残し、空へ飛び去った。こうして広州は中国嶺南地区で最も裕福な地域となり、またこの伝説により、広州は「羊城」「穂城」の別名でも呼ばれるようになった。 広州の古代史を正確に知りたいなら、大多数の広州人は西漢南越王博物館を薦めるはずだ。以前、日本の海部俊樹元総理も参観し、「感動歴史(歴史に感動する)」という言葉を残した。越秀公園の正門を出て、徒歩10分ほどで博物館の重厚な赤砂岩の建築が目に入る。この建物の後ろにある丘には、かつて神秘的な古い墓が隠されていた。1983年の驚くべき発見により、その本当の姿が徐々に現れてきた。
墓の主は前漢南越国の第二代の王、趙昧(?~前122年)で、第一代の王、趙佗(およそ前240年~前137年)の孫にあたる。南越国と広州はどのような関係なのか? その説明には2000年以上前に建設された番禹城までさかのぼる必要がある。番禹城は現在の広州だ。紀元前214年、秦の始皇帝は嶺南統一の大業を成し遂げ、今の広東一帯に南海郡を設け、番禹を郡治(省都に相当)所在地とした。秦が滅びると、南海郡最高長官の任囂(?~前206年)の部下だった趙佗は中原の大乱に乗じて、前203年、南越国を建てて番禹を都とした。ここに南越国の歴史の幕が上がった。 幸運にも2000年以上の間、南越王の墓は盗掘されることがなかった。考古発掘が終わり、今では墓室に入って、その配置や副葬品から当時の南越王国の礼制や風俗を知ることができる。博物館に展示された玉器や屏風などの文物からは、漢や越、楚の多文化融合を感じられる。また、銀製の箱などの舶来品は南越国と西アジアやアフリカなどとの文化交流を反映し、広州が中国海外貿易の重要港および海のシルクロード発祥の地の一つであるという重要な物証となっている。
深遠な書院文化 南越王趙佗の皇城は、現在の広州の北京路一帯に位置する。北京路は、北京の王府井や上海の南京路と同じく、街一番の繁華な商業歩行者天国で、この街の歴史的変遷を凝縮している。北京路から西へ徒歩5分ほどに、「流水井」という名前の小道があり、この小道に入ると都市の騒がしさは急に消えてしまう。灰色レンガの壁に囲まれた廬江書院や、外壁がまだらの考亭書院、寂れた民家、壁と建物の間にぶら下がる電線など、厳粛な文化の香りと市民生活の濃厚な息遣いがここで混ざり合っている。 ここは、広州市が保護計画を進めている「大小馬站書院群」だ。記録によると、清代、広州にある書院の数は全国トップだったという。北京路付近一帯の流水井や大馬站、小馬站を中心とする3平方キロの範囲内には、かつて数百の書院が点在し、全国でも珍しい書院群を形成していた。例えば、広東の各級官吏が銀を寄付して建てた粤秀書院は、朝廷が認可した国営書院として、清代の広州四大書院のトップになり、最大規模はかつて3700平方メートルに達した。 広州に書院が集中した大きな要因は、当時、中国の科挙試験が興隆期に入ったためだ。国営書院のほかにも、広州には多数の宗族書院があった。清代中期、広州は中国で唯一の対外通商港となり、商業が栄え、科挙試験に参加する士人が増え続けた。広東省内の同姓宗族の人々が次々と広州で姓氏書院を建て、同族子弟の受験のために宿泊や試験準備の場所を提供した。 清代末期の科挙廃止に伴って、広州の書院も没落していった。しかし否定できないのは、当時、政府と民間が共同でつくり上げた書院群が、かつては広州ないし広東の文化を尊ぶ気風を支えていて、広州が千年の商都というだけではなく、中国文化の重鎮でもあるという事実を裏付けていることだ。そして、大小馬站書院群が補修・改築されれば、広州文化の新しいシンボルとなることだろう。
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