「南海」 歴史、国際法尊重を

東洋学園大学教授 朱建栄

朱建栄 (ZhuJianrong)

1957年上海生まれ。華東師範大学外国語学部卒業後渡日、学習院大学で政治学博士号取得。中日問題専門家、著名な在日中国人学者であり、専門は国際政治と中日関係。日本華人教授協会会長、NPO中日学術交流センター理事長を歴任。現在、東洋学園大学国際交流学部教授、日本国際アジア共同体学会副理事長。

 南海問題はいわゆる仲裁結果が出て以来、さらに錯綜し、さらに複雑化している。中国がこの仲裁結果に参加せず、受け入れないということを筆者はよく理解できる。1995年8月10日、中国・フィリピン両国は南海等の問題に関する共同声明に、「双方は順に少しずつ協力を推進し、最終的に交渉で双方の係争問題を解決することを約束する」と明確に書き込んだ。その後、双方はこの共同声明の順守を何度も繰り返して言明した。外交協定において「最終的に交渉で解決すること」を「約束する」という表現は国際関係上拘束力がある。しかし、フィリピン側は交渉を放棄し、一方的に「仲裁」を申し立てた。中国は2006年、「国連海洋法条約」第298条の規定に基づき、主権、領海等の係争に対して、いかなる強制的な係争解決のプロセスも受け入れないとし、事実上、国連安保理の5大常任理事国の中で、米国だけがこの海洋法条約に未加盟なのだが、他の4カ国は同じ態度を表明した。フィリピンが仲裁を申し立てた仲裁事項の実質は南海の一部の島・礁の領土主権問題である。

根本的な解決にはならない 

今回の仲裁結果は、南海係争問題の解決には何の役にも立たない。中国武漢大学の黄偉准教授は「新たな衝突の種をまいた」とさえ指摘した。現在、南太平洋、インド洋などには多くの面積が狭小の小島嶼国があり、仮に仲裁裁判所のロジックによれば、これらの島嶼は「岩礁」と定義され、200㌋(約370㌔)の排他的経済水域(EEZ)と大陸棚はなくなり、これらの国々に致命的な打撃が与えられる。

結局のところ、歴史的な事実、国際法上に立脚点のない「判決」は生命力や普遍的な意義は持ち得ない。本稿は歴史的、国際法的な角度から、日本と南海問題の関係についての一考察であり、当面する問題の本質を考える上で有利だと考える。

長期間、日本の大学で華人教授として教壇に立ってきた筆者は一貫して日本と南海の関係に関心を持ってきた。今日まで、関連の研究が引用している資料の大部分は台湾などの外部からきた間接資料であり、筆者は日本の歴史文献から多くの直接資料を探し、かなり新発見があった。

第1次世界大戦後、日本は東南アジアに向かって積極的な拡張に取り組み始めた。日本海軍は(南海諸島について)釣魚島を侵略・占拠したと同じ手法の採用、つまり日本人が南海諸島を最初に発見して開発したと称することを主張した。しかし、日本外務省は「日本先占」はこじつけであり、証拠がないと考えた。一連の史料的な傍証を収集すると、日本政府は内部で立場の調整を行い、南海諸島は歴史的に中国に属していたことを承認し、フランスの先占権を否定する方式で、日本と同様に南海で拡張を追求していたフランスをけん制することについて意見が一致し、これによって日本の南海諸島占領のために伏線を張った。

西沙諸島開発は中国人名義

外務省外交史料館所蔵の1929年召集の第56回帝国議会で使用した説明参考資料の中に「西沙群島における邦人の鳥糞採取に関する件」と題する書類があり、以下の内容が記されている。「西沙群島は海南島の東南約140㌋の北緯16、7度の南海上にある。大小20余の島嶼で構成され、多くはサンゴ礁からなっている。支那(当時の日本の中国に対する呼称、以下同じ)側の調査によると、同島には海鳥が生息し、主に鳥糞石を産出し、魚介類もある。島には定住民はなく、漁期に出漁してくる20~30隻の漁船と数百人の漁師がいるだけだった。大正10年(1921年)、何端年という名の支那人が孫中山革命に対する支持という名目で、西沙群島の権利を取得し、西沙群島開発公司を設立した。梁国之という支那人が出資側の代表としてその公司に資金を提供し、双方が共同経営契約に調印した。実際上、資金は日本から出ており、台湾高雄に居住する平田末治なる人物が提供していた」

やむを得ず中国人名義使う

この叙述は、当時の日本が西沙諸島に手を出したいと考えていたが、同諸島が中国の管轄下にあることを知っていたために、やむを得ず中国人名義で入り込んでいたことを明らかにし、またこれは日本が西沙諸島の主権は中国に所属するという立場を完全に承認していたことを証明している。

1933年、フランスが中国南沙諸島の「九小島」を侵略・占拠したという情報が伝わった。筆者は同年7月21日の『読売新聞』に「佛国の占有島嶼 軍事上は無力

長岡大使から報告」という見出しの記事を見つけた。この記事はフランスが南沙諸島に対する占領、主権宣言後、日本の長岡駐仏大使が訓令に基づいて、調査し報告したもので、日本人は1925年以降、中業島で銀鉱を探査し、そこには中国人が早くから居住していた痕跡があったことを伝えている。またフランスが占領した別の島(考証から双子群礁)上に、海南島からやって来た中国人が住み続けていた。

外務省外交史料館所蔵の「各国の地理に関する雑件」に以下のような記載があった。当時の須磨弥吉郎駐広東総領事代理が1930年10月21日時点で、広東省の陸地面積の統計をまとめ、広東全省94県それぞれの面積、特に広州湾、香港、澳門、西沙諸島を抜き出してその面積を列記した。

フランスが実効支配を狙う

1938年初夏、フランス領インドシナ当局は要員を派遣し西沙諸島を占拠した。筆者は当時の日本の新聞2部から、日本がフランスとの外交交渉中、「西沙諸島は中国に所属する」との立場を完全に堅持していたことを立証できた。1部は『読売新聞』1938年7月8日朝刊で、一面トップで「佛(仏)の西沙島占有認めず 我方嚴(厳)重なる覺(覚)書手交」という見出しを付けて報じた。この記事によれば、同年7月4日、駐日フランス大使が堀内外務次官を訪ね、口頭で最近、フランス領インドシナ当局が西沙諸島に行政官と十数人の巡査を派遣し、また灯台、浮標、無線施設等を設置し、同諸島を完全に占有したと伝えた。これに対して、外務省は7月7日、駐日フランス大使に出頭を求め、堀内次官が同大使に対して、覚書を渡し、フランスが西沙諸島から撤退するよう要求した。覚書は次の点を明確に示している。フランスは1937年の対日公約(中国との西沙諸島についての領土権紛争の過程において、西沙諸島に対して占領行動は採らない)に違反しており、これを受け入れないフランス側の行為によって「日本が関連諸島問題は中国だけを交渉対象とするという一貫した立場を変更することはあり得ない」

「西沙諸島は明確に中国領」

同日の同紙夕刊は1面で「我方佛国に抗議 『西沙島は明らかに支那領』」の見出しで報じた。この記事はさらに前日、フランス大使に出頭を求め抗議文書を手交した詳細を報じた。それによると、7月7日午後4時、堀内次官はフランス大使を引見し、同島(西沙諸島)は「明確に」支那領土である、と表明した。記事はさらに日本政府が提供した「西沙諸島が支那領である根拠」として、先ず、1920年日本の某社がかつてフランスのインドシナ占領南海軍部長に西沙諸島の帰属問題を問い合わせたところ、同部長はフランス海軍の記録には西沙諸島がフランス領土に属するという記載はない、と回答した。第2に、1921年に広東省民政長官は西沙諸島の行政は海南島支庁が管轄すると公示した(これに誰も異議を唱えなかった)。

 

 

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