徐福文化の共通認識

 

約400の島と200の礁からなる岱山県(写真・胡祖剛)

 

磨心山は岱山最高峰だが、それほど高くもなく、麓から車で数分で山頂に到着し、島の全景を眼下に眺めることができる。岱山人がここに徐福祠と銅像を立てた。像は東に向いて立ち、潮風にひげをなびかせ、大海を眺める。徐福像から遠くない所に日本の元首相の題詞がある。1994年に当選した羽田孜元首相は、以前自分のことを徐福の後代、始皇帝の子孫と称した。彼は「羽田」と「秦」の日本語の発音が共に「hata」で、自分の祖先の名は「秦」と言う。岱山徐福研究会の陶和平副会長(63)の話によると、羽田元首相が熱心に徐福文化を広めているそうだ。もともと6月に浙江省象山で開催される中日韓徐福文化ゼミナールに出席する予定だったが、身体的事情で実行できなくなったので、特に息子の羽田次郎さんに参加させた。羽田元首相の親戚の羽田計樹さんは、日本徐福会のメンバーで、これまで2回岱山を訪れた。羽田一家は徐福文化交流の波及に努力しているといえよう。

佐賀県、和歌山県などの地域は、廟、墓、祠や民間伝説など今も多くの徐福文化の記憶をとどめている。徐福研究学者として、陶和平は何度も日本を訪問した。中国の稲作文化の日本東伝に関する論文が発表された後、日本で注目を引き起こした。取材のなかでは、日本の学者、飯野孝宥氏の著作『弥生の日輪』の観点を取り上げる。日本の縄文時代から弥生時代への100年間で、文明のスパンの大きさは言葉にならない驚きだ。生産用具の作成から文化へと質的な飛躍があり、これは外来文化の影響を受けているに違いなく、徐福がもたらした進歩かもしれない。中国史書の記載によれば、徐福は童男、童女のほかにも多くの技術者を伴い東渡した。各業界の技術者は中国最新の紡績、農耕、建築、鋳造、稲作技術を日本に広め、現地の文明発展に大きく貢献した。

2004年岱山では徐福文化国際ゼミナールを開いたが、中日韓の学者が一堂に集まり、徐福文化研究を文化交流の紐帯とした。金昌専氏の説明では、過去の研究ポイントは史料や実物などの掘り起こしで、現在では人文交流を重視して徐福文化の精神に内在する要素を探究している。徐福の異なる地域の生活習慣および習俗への浸透に対する研究を通じて、三国間の文化共通点を発見した。現在中日韓の学者は、徐福は文化交流の先駆者であるだけでなく、包容・開放、平和・友好のシンボルでもあると考える。このような一致は非常に尊いもので、その積極的協力の精神は、三国の今後の経済、文化交流にも重要な啓示を与えるものとなっている。

 

人民中国インターネット版