「石人」となり川を見守る

 

清代に建造された都江堰南橋には宝瓶口から岷江の水がごうごうと音を立てて流れる。橋は夜にライトアップされ、美しい夜景を見せる

これら全ては李氷の努力のたまものだ。紀元前256年に誰からも注目されない任命を受けた李氷は蜀の郡守になり、結果的に四川全域の運命を大きく変えることとなった。

蜀郡へやって来た李氷は直ちに土地の状況を把握しようとした。広大な成都平原を見た彼は、土地が豊かなのに人家がまばらで開墾された田畑も多くないことに気付いた。そこに住む農民に聞いてみたところ、この地を流れる岷江が毎年氾濫するせいで作物がいくらも収穫されないことを知った。そこで彼はこの地に住む民衆のために河川全体の整備を決めたのだった。険しい山やうっそうと茂る林に幾度も入り、流れに沿って川を下り、岷江を詳しく調査した。周到な計画は玉壘山から始まった。彼は自ら住民らを率いて玉壘山を掘って幅20㍍の宝瓶口を造り、水を引いた。それから魚嘴と飛砂堰を築き、長年の間都江堰建設のために尽力した。水利の知識も持っていなかった彼は民衆のためを思う使命感に駆られ、刻苦研さんして方法を模索した。彼はこのような治水の「三字経(3文字で1句の文章)」を残している。「深淘灘、低作堰(灘を深く淘い、堰を低く作る)」。「深淘灘」とは川底の土砂を深く掘ることで、内江の水量が減り過ぎて灌漑に使えないことがないようにするためだ。「低作堰」とは飛砂堰の堤防を高くしすぎないことで、水害シーズンに水の排出を妨げて成都平原に危害を及ぼすことのないようにするためだ。この言葉は治水の規範として今日でもあがめられている。

内江の水流を制御するために李氷は息子に命じて石を人間の形に彫らせた「石人」を3体作り、川を鎮め、水位を測った。李氷が亡くなった400年後、後漢の治水役人が高さ約3㍍の「三神石人」を改めて作り水位を測った。この「三神石人」のうちの1体は李氷の石像だ。石像は長い年月を経て土砂の中に埋まったが、1970年代に外江の水量を調節する水門を建設する際に川床から掘り出され、今は伏龍観というお堂に祭られており、その姿を見ることができる。お堂のそばでは都江堰からけたたましい水音が聞こえる。2000年の時を経てもなお李氷は自身が造った立派な建造物を見守っている。

人民中国インターネット版