第1回 ミャンマーの大茶商 張彩雲とその一族の歴史(1)

2019-05-06 10:49:57

 

                                                       須賀努=文・写真

中国、その広大な国土から様々な理由でアジアに渡った人々がいた。こんな所まで一体どうやって来たのか、どのように生きて来たのか、華僑・華人、その祖先の歴史には常にとても興味を惹かれてきた。今回は彼らの歴史を、お茶を通して見ていき、実際に旅した場所と調べた内容を報告してみたい。

ミャンマー華人茶商に興味を持つ

私はミャンマーの最大都市、ヤンゴンに立っていた。意外と馴染みのある場所で、2003年に初めて行って以来、何度も訪れているお気に入りの街だ。お茶で言えば、食べるお茶、ラペソー(ティサラダ)が有名で、お茶は元々飲むものではなく、食べるものだったのではないか、と最初に気づかせてくれたところでもあった。

ミャンマー シャン州 ラペソー作り

ここに来た理由、そのきっかけは偶然に見えたが、これも必然なのかもしれない。中国福建省はお茶の一大産地であり、時々訪ねている。先日鉄観音茶の発祥地といわれる安渓で華僑史研究の陳克振先生とお会いした際、先生の著書『安渓華僑誌』を頂戴した。それを読んでみると、安渓からは数多くの華僑が排出され、様々な地域、分野で財を成した人々が記されていた。

その中に100年近く前にミャンマーに渡り、茶商として成功した張彩雲という人物が載せられていたのだ。ミャンマーの華人茶商、初めて聞くのでとても興味を持った。アジアの主要都市にはそれなりに華僑・華人がおり、根を張って商売などをしている。シンガポールやマレーシア、インドネシアと茶業はパッと結びつくが、ミャンマーで茶業を手掛ける華僑の影が見えたことはなかったからだ。

張彩雲氏

この張彩雲という人を調べてみたいと思ったが、この本以外、全く手掛かりはなかった。しかも彼はもう30年も前の199194歳でこの世を去っている。その末裔は果たして今もヤンゴンにいるのか、何をしているかは皆目見当もつかなかった。

そこでミャンマーの知り合いに相談したところ、彼の友人に華人がおり、「福建系だと分かっていれば、廟に問い合わせれば何かわかるだろう」とヤンゴンで調べてくれ、何と「息子さんが見付かったから、会いに行ったらどうか」という思いがけない知らせをもたらしてくれ、居ても立ってもいられずに、早々に出掛けて来たという訳だ。

これまでヤンゴンの華人を意識したことはあまりなかった。チャイナタウンがどこにあるのかもよくは知らなかった。今回宿泊先のダウンタウンのホテルから、歩いて行けると知った。ただそこには中華門などの牌楼はなく、観光地ではないことは明らかだった。そのほぼ真ん中、港に近い位置に150年以上の歴史を誇る慶福宮に辿り着く。

ヤンゴン 慶福宮

そしてついにここで張彩雲氏の三男、張家栄氏と会うことが出来た。彼は83歳ですでに引退の身だが、以前はこの宮の主任をしており、この宮自体も張彩雲と大いに関係があることが分かった。この宮に集まる人は福建方言を話しているが、筆者に向かっては標準的な普通話で対応してくれた。

ヤンゴン 張家栄氏(中央)と 

ヤンゴンの張彩雲とは

安渓大坪 現在の茶畑

張彩雲とはどんな人だったのだろうか。彼とその一族の歴史は、お茶に止まらず、まさに中国とミャンマーの近現代史、華僑史ともいえる内容で、極めて興味深いので詳しく見てみたい。1899年福建省安渓大坪(閔南の茶産地)の茶農家の四男に生まれた彩雲は、貧しさの中、1916年に兄たちがいるミャンマーに渡り、モウラミュインで野菜や果物の生産・販売を手伝っていた。1921年に帰国し、地元で結婚。その時四兄弟で話し合い、地元の茶を南洋で運んで売ることに決し、「張源美」という茶業者が誕生した。1922年三男彩南が茶葉を調達して運び、彩雲がミャンマーでの販売担当となった。

ミャンマー モウラミュイン 現在の川の様子

だが最初は上手くはいかなかった。1920年代既にヤンゴンには林奇苑をはじめ、厦門の大茶商が武夷茶を大量に販売しており、入り込む余地は乏しかったのだ。それでも各地、港を回りセールスを続けていると、1930年に福建の土匪が武夷山から厦門の茶葉ルートに入り込み分断、武夷茶が海外に流れなくなったのを好機に、彩雲たちの安渓茶は、一気にヤンゴン市場を独占していく。1931年にはヤンゴンに茶葉卸市場を創設、張源美の商標として「白毛猴」を登録。1932年には厦門に自前の加工場と倉庫を建て、茶葉供給を盤石の物として行った。

更には1937年盧溝橋事件を起因とする日中戦争開始により、東南アジア各地の交通も分断され、中国国内の茶葉供給も難しくなる。張兄弟は暴落した茶葉を大量に買取り、香港と泉州に独自の輸出拠点を設けて茶葉をミャンマーに運び、更には1939年に武夷山赤石(ここが万里茶路の本当の起点)の大茶工場を買い取り、自社商品を生産。これにより、ピンチをチャンスに変えた張源美の「白毛猴」はミャンマーで独占的な地位を確立していく。歴史に翻弄されながらも力強く生きる、典型的な華人成功者、張彩雲には戦中、戦後も波乱の人生が待っていた。

 

 

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