第8回 ペナン、そしてアロースターの老舗茶荘は

2020-01-02 16:04:52

須賀努=文・写真

ペナンで一番古い茶荘

マレーシアでKLに次ぐ重要な町はペナン島であろう。勿論華人は沢山住んでいるので、茶荘もいつもあるだろうと思い、何のツテもなしに行ってみた。だが街をちょっと歩いてみても、中国茶を売る店は簡単には見つからない。そのような場合どうするか。これまでの茶旅で得た経験、それは「海外で暮らす華人社会には必ず同郷会が存在しており、その役割はかなり大きい。そこへ行けば、何らかの情報は得られる」というものだった。

そこでペナンでも、安渓会館を探した。インターネット上ではすぐには出て来なかったが、福建会館で探すと、何とか見つかり向かう。福建会館の横には立派な孫文記念館があり、清朝打倒を目指した孫文の活動に華人がどのようにかかわっていたのかの一端を見ることができる。

 

ペナン 福建会館の看板

福建会館事務局を訪ねたが、「茶荘の情報はないな。自分もお茶は飲まないよ」とつれない返事が返って来て愕然とする。だが事務局長の曽さんは色々と考えてくれ、「そういえば、古い茶荘が一軒ある。ただここから歩くとかなりあるよ」と教えてくれたので、30分ほど歩いた。

こんな郊外にと思うところに、その老翁茶はあった。看板を見る限り、ここが1929年創業だと分かったが、昔のリストにこの茶荘の名はない。聞いてみると、何と元の名前がリストにあった「陳烈盛」だと分かり、歓喜する。やはり残っていたのだ。置いてある茶道具や茶缶なども古めかしく、テンションが上がる。

 

ペナン 老翁茶の小袋

   陳亜城さんは3代目。父親の時代は商売もよかったが、20年前に現在の郊外に引っ越してきた。以前はペナンを拠点に、バンコックなど他の東南アジアに茶葉を輸出するほどだったが、それも遠い昔になった。最近はインドネシアから紅茶を輸入し、インド系に卸すなど、かなり商売も変わってきたという。

 ここの一族は珍しく広東省海豊から来た客家だったので、福建会館の情報網にも入っていなかったのだ。だが閔南語を話すため、お茶は安渓茶など中国茶を多く扱っており、現在も小袋に鉄観音茶などを詰めて販売していた。ここがペナンで現存する一番古い茶荘になっていた。

 

 

ペナン 老翁茶の陳さん(右)と

もう一つ出会いがあった。福建会館の曽さんが紹介してくれた茶芸協会の人々だった。彼らは1990年頃に台湾からマレーシアに入ってきた茶藝を通じて、中国茶を普及させようと活動している。老舗茶荘が少なくなった今、茶芸協会による普及活動は重要となり、後日見学したイベントでも、華人だけでなく、マレー系、インド系にも茶を楽しんでもらおうと趣向を凝らしていた。

その茶芸協会の荘嘉銘さんの案内で、ペナンのもう一つの老舗、人和茶荘に向かう。ここも市内中心部からは離れており、小売りより卸がベースなのだろう。安渓人の劉忠義さんは、1952年にペナン最大の茶商、龍泉(既に廃業)で働き始め、25年間務めた。元々岳父が経営していた人和に1977年に参加して、岳父が引退後店を引き継いだという。

 

ペナン 人和茶荘 劉さん(右)と茶芸協会 荘さん

龍泉時代はマレー半島東海岸を担当しており、交通が不便だったので2日も掛けて行っていたらしい。お客はマレー系が多いので、テダレ(ミルクティー)の原料となる紅茶粉を売るのが仕事で、福建茶などは扱わなかった。キャメロンハイランドの紅茶、ボーティーは輸出用で、国内ではあまり流通しなったともいう。

劉さんは80歳を過ぎても元気で、自らお茶を淹れてくれる。以前は六堡茶がかなり飲まれていたが、今ではプーアル茶というように、お客の方向性はどんどん変わっていく。果たしてどのようなお茶屋が必要なのか、将来はかなり不透明な状況と言わざるを得ない。

 

アロースター唯一の茶荘は

ペナンからフェリーで半島に渡り、列車で1時間行くとアロースターに着く。更に1時間走るとタイ国境という位置関係。最近首相に返り咲いたマハティール氏の生まれ故郷でもある。ここは華人が少なく、マレー系の匂いが濃い地域だと言える。ここにも茶荘はあるのだろうか。

ようやくのことで、唯一の老舗、振華茶荘を見つけた。華人が閔南語で話しながらお茶を飲んでいたが、突然の闖入者に皆が、「あんた誰?」という顔をした。私が老舗茶荘を訪ねている旨を伝えると、そのうちの一人が立ち上がった。ここのオーナー、李礼誠さんだった。

 

アロースター 振華茶荘 李さん

彼もやはり原籍は福建省安渓。第二次大戦前に父親がマレーシアに渡り、ペナンの栄華茶荘(既に廃業)で働いていたらしい。その支店としてアロースターに出てきたのは戦後すぐだったという。この地はマレー系が多いため、中国茶を売るのではなく、テダレの原料である、紅茶粉の販売を主として生き残ってきた。

ただ李さんも70歳を過ぎ、今やこの茶荘は近所の華人たちの集会所のようになっていた。「誰もこの仕事を継ぐ人はいないよ。儲からないから」と呆気ない。それより華人の高齢化、子供や孫がどんどんこの街を離れてしまう方が問題らしい。街で唯一の茶荘だが、早晩無くなってしまうのではと心配になる。まあそれも時代の流れかもしれない。

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