大きく変わった正当防衛

2020-01-20 14:49:29

鮑栄振=文

きっかけは交通事故から

 事件は2018年8月27日夜、江蘇省昆山市内の市道上で起きた。飲酒運転していた劉容疑者の乗用車が自転車専用レーンに侵入し、自転車に乗っていた于海明氏にぶつかった。その後、2人は言い争いからつかみ合いのケンカとなり、劉容疑者は于氏に殴る蹴るの暴行を加えた。さらに取り出した刃物で、何度も于氏を殴打した。だが劉容疑者が刃物を落としたので、于氏はそれを拾い、逆に劉容疑者の腹や胸、尻、腕などを刺し切りつけた。さらに于氏は、車の方に逃げ去る劉容疑者を追い掛けたが、劉容疑者は付近の植樹帯に倒れ込んだ。その後、救急車で病院に運ばれた劉容疑者は同日、出血性ショックで死亡した。

 傷害事件として捜査が開始され、同月31日には事件の全容が解明。翌9月1日には、同市公安局から、刑法第20条第3項の規定に基づき、于氏の行為を正当防衛と認定する旨が発表された。これで于氏は刑事上の責任を問われることがなくなった。結局、人民検察院からの意見を受けて、同市の公安機関は事件の捜査を中止した。

 

形骸化した正当防衛の要件

 中国では1979年から刑法で正当防衛が規定された。また97年の改正刑法には、権利を不法に侵害された者に対する特殊な「制限のない正当防衛権」の付与に関する条項が盛り込まれた。しかし、法的な整備に比べて司法の実務が追いついていない。これまで数十年来、正当防衛が争われた事件の多くが、「防衛行為は必要な限度を超えたものであった」と認定されてきた。

 中には、最初から防衛の性質について論じることなく、そのまま故意犯の成立を認めるものさえあり、刑法の正当防衛に関する規定がほぼ形骸化していた。このため、防衛する側も自分が犯罪者となることを恐れ、十分な反撃ができない場合が多く、正当防衛という法律概念が有名無実化してしまっていた。こうして立法趣旨がないがしろにされ、合法的な自己防衛手段が保証されないため、人々の不信感が高まっていた。

 北京大学法学院の梁根林教授も、「正当防衛の適用拡大の立法趣旨に対し、司法実務が遅れた状態が長い間続いている。このため、当該条項が実質的に適用されず、形骸化している」と批判する。また、過剰防衛かどうかを判断する上で、次の4点の思い込みが存在すると指摘する。

 ①急迫不正の侵害行為に対し、客観的かつ冷静な防衛行為を要求するのは現実味に欠ける②事後的に見た事実のみに基づき、正当防衛か否かを判断するのはナンセンスである③武器対等の原則に基づき防衛行為の相当性を要求するのは、しゃくし定規である④正当防衛は相手を死亡させた場合、または重傷を負わせた場合にも成立するため、相手に負わせた傷害の程度が正当防衛を否定する理由にはならない。

 こうした流れの中、最高人民検察院は2018年1219日、正当防衛の認定に関する文章を公表した。この中で同院の孫謙副検察長は次のように述べている。「近年、正当防衛の問題が注目を集めている。きっかけは単発の小さな事件だったが、民主、法治、公平、正義、安全を求める国民によって社会的に注目されている。こうした国民の声に応え、正当防衛の成否の基準を明確にすることが、今、司法機関が果たすべき重要な任務となっている。正当防衛の適用拡大は、悪事を働こうとする者への抑止力にもなる。また、襲われて対応する際、正当防衛の権利が保証されていれば、ためらわず反撃に出ることができる」

 この文章と共に正当防衛と過剰防衛に関する指針的な事例4件も公表された。于氏の正当防衛事件もそのうちの一つだ。孫謙副検察長が述べたように、これらの事例を通して正当防衛の認定基準を説明することで、権利の保護を明確化し、認定における問題を解決するのが狙いである。

 

何でも正当防衛と認定される?

 最高人民検察院から公表された指針的事例と孫謙副検察長の言葉からは、司法機関の正当防衛に対する見方に、以下のような変化が起きたことが分かる。公表された4件の事例で説明する。

 

【事例1】 

  医師Aは医療過誤により患者の家族Bからクレームを受けていた。Bはクレームの中で医師Aに危害を加える旨の発言をしていた。Aはこれを真に受け、常に護身用具を持ち歩いていた。ある日、Bが姿を現しAに対して暴行したため、Aは持っていた護身用具でBに反撃。その結果、Bは死亡した。

 このような状況は、かつてほとんどが「過剰防衛」と認定されていた。だが前出の最高人民検察院の見解によれば、医師Aの手段そのものは正当防衛の認定に影響を及ぼさない。Bが暴力を振るった事実さえあれば、Aの行為は「正当防衛」の範囲となり、刑事上の責任を問われない。

 ◇要点 自分の身の危険が予期される中で、刃物や護身用の武器を携帯しておくことは正当防衛の認定に影響を及ぼさない。

 

【事例2】 

  AがナイフでBを襲ったとする。襲われたBはAからナイフを取り上げ、Aの身体に何度もナイフを刺し、Aを死亡させた。

 これも、これまでの司法実務では、受傷の程度が両者均等かどうかが重視された。先に襲った側が、防衛のために反撃した側よりも重傷を負った場合、非常に高い確率で過剰防衛と認定されていた。最高検察院は現在、結果から過剰防衛かどうかを論じるのではなく、暴力の手段を論じるべき、という見方である。つまり、暴力の手段として対等であれば、その結果が対等でなくても正当防衛と認定されるのである。

 ◇要点 刃物を持った相手に切りつけられたら、こちらも刃物で切り返してもよい。

 ただし、Aが足でBを蹴っただけなのに、Bが持っていたナイフでAを刺した場合は、正当防衛とは見なされない。暴力の手段は対等である必要がある――つまり、反撃する場合は相手が用いたのと同レベルの手段でなければならない。

 

【事例3】 

  ナイフで切り付けられたので、そのナイフを奪って相手を切り付けた。相手は逃げ出したが、これで危険が去ったとは思えなかったので、追い掛けてナイフで切り付けた。

 これは冒頭で紹介した于氏の事件である。警察は当初、劉容疑者の落としたナイフを于氏が拾い上げた段階で、劉容疑者はすでに暴行を加えることができなくなっていたため、于氏の過剰防衛を疑っていた。だが、検察から于氏を擁護する見解が出されたこともあり、于氏の行為は正当防衛と認められた。劉容疑者が車に戻ろうとしたのは、他の武器を持ち出すためで、于氏は自分がまだ危険な状態にあると思って劉容疑者を追いかけて切り付けた――という点が正当防衛認定の決め手となった。

 ◇要点 正当防衛の「時間的急迫性」の要件が緩和されると思われる。つまり、襲ってきた者が現場を去るまで、または被害者に完全に危害を加えることができなくなる時点までは、被害者による反撃は合理的なものと認められるようになる。

 

【事例4】 

  なたを持ったAがBの家の玄関口で、Bに対し「~しなければ殺すぞ」などと言葉で脅迫。なたを振り回し、なたの背をBに押し当てた。ここでBはAからなたを取り上げ、Aを切り付けた。

 この場合、Aは本当に切り付けようとは考えておらず、ただBを脅すためだったかもしれない。これまででは、このケースは過剰防衛かBによる傷害事件とされた可能性が極めて高い。だが今後は、Bの行為も正当防衛と認められる。なぜならBは実際に危害を加えると脅されており、防衛のための反撃の前にAの行為の本当の目的を考慮する必要はないからだ。

 ◇要点 相手が危害を加えると脅したら、相手と同様の手段で反撃してよい。

中国の司法機関の正当防衛に対する見方は、時代の流れに沿って変化している。今では、その制度も、防衛行為を行った側に寄り添ったものとなってきている。冒頭の于氏の正当防衛が認められ、刑事責任を問われなかったことには、こうした背景がある。一つの小さな事件が、刑法の運用を大きく改善させたと言えるだろう。

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