秦漢とローマ(1) 東西の政治文明の基礎

2020-12-18 11:30:14

潘岳=文

 

潘岳 中央社会主義学院党グループ書記 

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。中央社会主義学院党グループ書記、第1副院長(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。

 

秦漢とローマ帝国は共に農業社会の基礎の上に打ち立てられた超大規模な政治体だ。これらは共に一つの時代にあり、人口と国土の規模が似通っていたが、土地の併合と小農の破産の関係、中央と地方の関係、政権と軍閥の関係、上層と末端の関係、自国文化と外来宗教の関係を処理する中で、完全に異なる結果を得た。ローマ帝国の後、欧州にはキリスト教を信仰する封建諸国が至る所にできた。一方、秦漢の後、中国には隋唐の大一統(全国の統一)王朝が引き続き興った。

 

大一統を支えた細かな末端統治

2002年、湖南省西部の湘西トゥチャ(土家)族ミャオ(苗)族自治州の龍山県里耶鎮で、発掘調査員が秦代の小都市「里耶古城」を掘り出した。その廃井戸から「里耶秦簡」と呼ばれる秦代の行政文書の竹簡数万枚が出土し、2000年以上前の末端統治の様子を現代人に示した。

考証によると、秦代の里耶古城の人口はわずか3000~4000人。山が高く谷が深く、農地が少なく、納めていた税は全国平均をはるかに下回っていた。しかし、秦朝は依然としてそこに103人にも及ぶ完全な官僚機構を設置していた。経済的な観点からいえば、このような土地にこれほど多くの官吏を置く価値は全くないが、秦帝国が重視したのは租税ではなかった。

整理した竹簡には、現地のケンポナシの性質や分布、収穫量に関する秦の官吏の詳しい説明が記録されていた。これは全力を注いで山や川の物産を調査で確認していた秦の官吏の使命感を表している。彼らは一歩一歩国土を開発し、戸籍を編製し、地図を描いた後、上級の「郡」に提出した。「郡」は各県の地図を合わせて「輿地図」を作り、朝廷に報告し、朝廷はこれを整理し、閲覧し、保存した。

秦の官吏は生産を促進するほか、煩雑な民政や司法の事務を処理しなければならなかった。全て整った秦法は規則や判例だけでなく、上訴制度もあった。小吏らは必ず厳格に法に基づいて仕事をしなければならなかった。例えば、各文書は同時に多くの部門に写しを送り、検査を受ける必要があった。軽微な事柄に重い判決を下したり、重大な事柄に軽い判決を下したりするなどの不公正が現れた場合、あるいは規則が互いに矛盾している場合には、各級ごとに上部に報告して仲裁を受ける必要があった。2000年前に末端の行政をこれほど細かくやり遂げていたのは実にまれなことだ。

里耶秦簡の死傷者名簿には、多くの小吏が在任期間中に過労や病気で死亡したことが記載されている。定員103人のうち、長期にわたって49人が欠員になっていた。秦朝は懸命に働かせるこうした「苛政」を用い、わずか14年のうちに全国で車軌や文字、風俗習慣の統一を実現し、治山治水や道路網整備などの大型建設プロジェクトを完成させた。

貴族出身の項羽は秦を滅ぼした後、分封制の復活を望み、わずか一部の国土だけを支配する封建王侯になり、慣れ親しんだ生活を送った。項羽と天下を争った劉邦は過去に戻ることを拒否し、項羽を破った後、秦のつくった大一統を受け継いだ。劉邦と彼の集団の中心的な人物の多くは小吏出身で、帝国の末端と中央がどのように結び付いているのかをよく理解し、郡県制の運営を熟知し、庶民のニーズを分かっており、大一統を維持するための深奥な秘訣を知り抜いた。このため、秦の首都・咸陽に攻め入ったとき、劉邦の集団は金銀財宝を求めず、律令や地図、戸籍簿だけを奪い取り、後にこれらの資料をよりどころとして大漢王朝の中央集権的な郡県制を確立した。

『歴史の終わり』で知られる米国の政治学者フランシス・フクヤマ氏は、中国の制度が「強大な国家能力」を有しており、欧州に1800年先んじて世界で最初の「近代国家」を秦漢で確立したと近年繰り返し指摘している。彼が打ち出した「近代」の基準は、血縁に拠らず、法理に基づき、機構が明確で、権力と責任がはっきりした理性的な官僚体系を備えていることだ。末端政権が天下を取ったと秦漢人は言った。

 

秦簡の模造品4280枚で作られた里耶鎮の壁の前で、秦代の文化に触れる観光客(asianewsphoto)

 

米上院と大統領は元老院と執政官

秦漢と同時期にローマは地中海の覇者として台頭した。

中国は農業文明、ギリシャ・ローマは海洋の商業貿易文明で、大本から違いがあったようだと多くの人々は考えている。実際は決してそうではない。1960年代以降の西洋の歴史学界の共通認識によると、紀元前500年から紀元後1000年までのギリシャ・ローマは農業社会で、商業貿易はわずかな補充にすぎなかった。古代ギリシャ史研究で知られる英国の歴史学者モーゼス・フィンリーは著書『古代世界における政治』の中で、「土地は最も重要な財産で、社会構造において家庭は最も重要な位置を占め、ほぼ全ての人々は経済的な自給自足を目標としていた。大多数の財産は土地の賃料と税収から来ていた」と指摘した。これは秦漢と非常に似通っている。

ギリシャは哲学者を生み、ローマは農民と戦士を生んだ。ローマの兵士は地中海の至る所で戦い、退役後にオリーブとブドウを植える土地が持てることだけを求めた。ちょうど秦漢の兵卒が除隊後に故郷で農業に従事することを切に望んだのと同じだ。

ローマの公民は商業を軽蔑し、貿易と金融は被征服民族がする仕事だと考えた。ローマ共和国の黄金時代に商人は元老院に入れなかった。貴族は戦いで得た財産を全て土地購入と大農場経営に使った。農業は生計の手段ではなく、田園生活の歌だった。秦漢は特にそうで、農業が根本で、商業が枝葉だった。

ローマ人は工事や戦争、国家統治にたけ、凱旋門、円形闘技場、浴場を残した。秦漢も同様で、現実に関心を持ち、国家を運営し、長城を築き、火薬を発明したが、決して論理学や科学に秀でてはいなかった。

ローマは西洋文明に政治的遺伝子を注入した。憲政制度の官僚体制と私法体系を確立し、初期の西洋市民社会を形成した。共和政期であれ帝政期であれ、ローマは観念、制度、法律における西洋の政治体の源流だ。17世紀の英国革命時に政治思想家ハリントンが著した共和国論『オセアナ』の青写真には、ローマ共和国の面影がある。フランス革命時のロベスピエールらには共和政ローマの英雄の面影がある。米国の上院と大統領制には元老院と執政官の面影がある。20世紀に入っても米国の右派の学界では、建国原則がそもそも準拠しているのはローマ式の古典的な共和なのか、それとも啓蒙運動の民主的な自然権なのかが議論されていた。西洋の政治文明の中で、いまだにローマの魅力的な面影が消えたことはない。

 

夕日の下、かつての帝国の輝きを放つ古代ローマの遺跡(写真提供・潘岳) 

関連文章