民芸、工芸そして流行

2020-03-09 15:51:04

 

『手仕事の日本』  『工芸の道』

柳宗悦著 金晶訳  柳宗悦著 陳文佳訳

北京聯合出版公司  北京聯合出版公司

20198  20198

初版発行  初版発行

劉檸=文

 先日、友人のある日本人女性建築家とおしゃべりしていて、長期的な経済衰退のもとで、日本は何をもって21世紀の世界に立脚するかという話となり、彼女は冗談めかして、「『民芸立国』の道しかないんじゃない? 一億総職人」と言った。

 冗談はさておき、「立国」かどうかは置いておいても、「民芸大国」はすでに実現しているといえる。それは、無印良品、東急ハンズ、蔦屋書店などの大型チェーン店の繁盛からも、全国のあらゆる都市にある雑貨店や骨董店、のみの市などからも見て取れる。過去10年の間に、こうした趣味の流行はひそかに国境を越え、中国の大都市でも民芸ブームを引き起こし、さらには日増しに中国の都市文化の定型ともなって、北京上海広州深圳のパブリックスペースや中流層の応接間を飾るようになった。

 日本の民芸の父とされる柳宗悦は、著書『民芸の趣旨』の中で、いわゆる民芸とは「民衆的工芸」であると定義しており、これは貴族的工芸と相対する概念である。彼によると、工芸とは「美と用が結ばれるもの」であり、自分の仕事とは、「用と美」という大原則のもとで、工芸の中に宿っている、人にまだ知られざる法則を発見し、これによりいわゆる「美しき工芸、正しき工芸、健かな工芸、全き工芸」を定義するというものだ。

 柳宗悦の民芸との出会いは1914年にさかのぼる。その年、彼は朝鮮の陶磁器や家具などの民芸品と期せずして遭遇し、にわかに一種の抑圧された「悲哀の美」に心引かれた。彼は「優雅である朝鮮の前に」、「独自の日本」を示すのは可能性があるだけでなく、大いに実行可能であると考えた。これにより、民芸運動の方向性が確立された。あの植民地時代に柳宗悦は、朝鮮や中国などの苦しめられ辱められていた民族の民芸品の中から至高の美を発見し、こうした美が日本の日用雑貨の美を見いだし活性化させる「酵母」になったと言えるだろう。

 当時の日本は、工業化と長年の戦争の影響で、民間工芸が驚くべき速度で消滅しようとしていた。柳宗悦は20年をかけ、全国を歩き回って民間手工芸の伝統と現状をつぶさに調査して、日本手仕事地図を描いた。国がやるべき芸術文化事業を一人の力で成し遂げたといってよいだろう。さらに民芸振興のため、実業家の大原孫三郎の支援のもと、東京駒場に日本民芸館を開設した。

1959年、柳宗悦は『民芸四十年』という書籍のあとがきの中で、以下のように記している。「開拓の努力の結果、ついに『民芸』という文字は辞書にも現れるに至った。今では民芸協会も日本全国で20カ所に支部が設けられ、民芸館もあわせて4カ所に建設せられた。いずれその数は増すであろう」と回顧している。民芸運動による掘り起こしと緊急救助によって、民芸は消滅という不運から逃れたばかりか、復興を遂げ、著名な学説にまでなった。もし近年の中国における民芸の流行発展と結び付けるならば、さらに柳宗悦の思想の先見性に感服せざるを得ない。彼は言う。「民芸は、海外での名声も高くなってきたが、どの道どこの国でもこの動きは起こるに違いない。国民の保有する固有の美を示すものであるから。それに民族の生活から生れ出たものであるから」

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