季語と歳時記

2019-05-08 20:30:01

=劉徳有

 日本の伝統的俳句に接してみて(無季の俳句は別だが)、「季語」を抜きにしては俳句について語れないことを知った。

 中国の辞書をいろいろと調べてみたが、「季語」という言葉はどこにも見当たらなかった。中国には日本で言われているような「季語」に類する言葉は昔から極めて豊富にあるが、日本語の「季語」という範疇が、中国ではまだ固まっていないのではないかと思われる。漢詩は必ずしも「季語」を必要としない。新しく生まれた「漢俳」も、歴史が浅い上、「季語」に対して厳しい要求はなく、あってもなくても良いことになっている。

 ところが、伝統的俳句の場合、「季語」の果たす暗示、連想、象徴、比喩などの役割および文化的背景などを理解しなければ、俳句を本当に理解し、味わうことは難しい。「一句を生かすも殺すも季語次第」と言われているほど、日本では「季語」の重要性が強調されるが、中国人にはいまひとつピンとこない。

 「季語」は日本の風土が培った日本人の美意識の反映とも、集大成とも言われている。日本は自然が美しく、四季の変化もハッキリしている。加えて日本民族は季節の移り変わりや自然のもろもろの現象に極めて敏感でこまやかであるため、季語を豊富に生み出している。また豊富な季語は、翻って大自然に対する日本人の感情をいっそうこまやかにし、敏感なものにしている。1年のうち雨季と乾季しかないアフリカなどでは、とうてい考えられないことだ。

 日本で出版された「歳時記」を見ると、日本民族が日本の風土に根差した季語を大量に生み出し、季語がいかに豊富であるかを知ることができる。「春一番」「菜種梅雨」「土恋し」「卯の花腐し」「虎が雨」「釣瓶落し」「虎落笛」など、枚挙にいとまがない。また同一のものを細かく分けていることも特徴の一つだ。紅葉を「初紅葉」「薄紅葉」「柿紅葉」「桜紅葉」「照紅葉」と分けているのがその良い例である。このような民族色豊かな季語を中国語訳にするのは、まさに至難の業であろう。

 「季語」を集めた「歳時記」は、日本では常に俳人の座右に置かれ、句作の参考に使われていると聞いている。

 「歳時記」といえば、例えば奈良時代に日本にも伝わったとされる『荊楚歳時記』や『燕京歳時記』のように中国にもあるが、これらは季語を収録したものではなく、もっぱら年中行事や風俗習慣を集めたものである。これに対して日本の「歳時記」は、もちろん中国の「歳時記」のようなものもあるが、一般には季語の百科全書であり、日本の風物や日本人の美意識、生活習慣、心理状態および感情などを歴史的に考察する上での重要な資料となっている。豊富な季語は日本の風土が培った美意識であり、日本文化を構成する重要な語彙群であると同時に、日本文化の大きな遺産でもある。

 では、季節や自然の現象に対して感情がこまやかで敏感であることは、日本民族独特のものかというと、必ずしもそうとは言えない。今は亡き詩人の林林先生は、昔から中国と日本の詩文学の季節感は、相通ずるものがあると指摘した上で、こう語っている。

 「『詩経』と『楚辞』が生まれて以来、詩には必ず風花雪月、鳥獣虫魚が歌われている。このように天象や風物を歌った詩は、人々の季節感を呼び起こし、四季を感じさせてくれる。春暖かにして日永く、夏暑くして夜短し。秋涼しくして夜長く、冬寒くして日短し。この点では、少しも異なるところはない」

 事実、中国で生み出された季節に関する多くの言葉が、日本の俳句の季語として取り入れられている。例えば、中国の黄河流域を中心にしてつくられた中国暦の二十四節気(立春から大寒まで)の全てと、1節気をさらに3等分してつくられた七十二候の一部(例えば、「鷹化して鳩となる」「雀大水に入り蛤となる」や「田鼠化して鴑となる」など)は、日本ではすでに俳句の季語としてなんの抵抗もなく使われている。

 一年中の気候や風物の変化を表す七十二候は、例えば「鴻雁来(雁が飛来し始める)」「寒蝉鳴(ヒグラシが鳴き始める)」「蚯蚓出(ミミズが地上にはい出る)」「桃始華(桃の花が咲き始める)」「水始氷(水が凍り始める)」「雷乃発声(遠くで雷の音がし始める)」など、その内容は広範にわたっている。科学的に観察して得た結論もあれば、上に述べた「鷹化して鳩となる」や「雀大水に入り蛤となる」のように、非科学的なものも含まれている。しかし、全体的に見て、気候や風物などに敏感で、細かく観察した古代中国人の努力の跡がうかがわれる。

 

 気候の変化の観察とも関連するが、中国の民間には真冬の寒さを表す「九九の歌」(もしくは「九を数える歌」)というものがある。つまり、冬至から数えて81日間を、9日ごとに区分し、全部で九つの期間の寒さの特徴を言い表している。

 一九 二九 不出手

 三九 四九 氷上走 

 五九 六九 河辺看柳

 七九 河開 八九 雁来

 九九加一九 耕牛遍地走

 

日本語に訳すと、さしずめ、

 

 一つ目と二つ目の9日間は寒くて手が出せず、

 三つ目と四つ目の9日間は

 氷の上を歩いても平気。

 五つ目と六つ目の9日間は

 川辺の柳が芽を吹き始め、

 七つ目の9日間に川が解け、

 八つ目の9日間に雁が来る。

 九つ目の9日間にさらに9日足せば、

 牛が畑を行ったり来たり。

 とでもなろうか。気候や風物に関する言葉が中国から日本に多く伝わったが、この歌はどういうわけか、伝わっていない。

 さて、前にも述べたように、中国で絶句や律詩をつくる際、韻や平仄などには大変やかましいが、俳句のように季語を必ず入れなければならないという決まりはない。

 いずれにせよ、季語を巡る中日間の交流は昔からあったにもかかわらず、季語については、文化的背景や伝統の違いなどから中日両国の間に共通点と相違点が見られ、大変興味深い。

 今後、中国と日本の文化交流が進むにつれ、いつか、「季語」という言葉が中国の辞書に収録される日が来るかもしれない。

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