自転車?それともランドローバー?

2020-04-24 18:37:50

 

寧国濤=文

鄒源=イラスト

 劉波と董剛は大学の同級生で、このほど2人は同時にある企業の面接に挑み、どちらも受かり、2人はとても喜んだ。

 この会社は民営企業で、創業から3カ月しかたっておらず、まだ初歩段階にあった。劉波はリスクが大きく、将来の不確定要素もあまりにも多いと思い、この民営企業には行かないことにした。

 彼は外資系の方が、体裁もよく、安定していて、資金も豊かなので、大船に乗った方が良いだろうと考えたのだ。

 しかし董剛は、創業したての企業で頑張れば、今後の成長の余地がとても大きいだろうと考え、この民営企業に勤めることにした。劉波が説得しても無駄で、彼は董剛のために惜しいと感じた。

 劉波は外資企業に入社したが、税金が引かれる前の給料は8000元で、大学を卒業したばかりの新卒者にとって、かなり良い給料と言えた。董剛のいる民営企業は毎月の給料がわずか3500元だった。しかし社長は社員との契約の中で、どの社員にも100分の1の株式を贈与し、以後利益の分け前を受け取れるとしていた。

 劉波は董剛がとてもうれしそうに株式の事を語るのを見て、「創業したての企業は生存していくこと自体が問題で、生き残れても何年持つかが重要で、利益の分け前ばかり考えてちゃダメだよ。社長にだまされているんじゃないの? 考えてもみろよ、この大都会・上海で3500元の給料で何ができるというんだ。ベルトをきつく締めて飢えをしのぎ、毎月もらうなり全部使い果たすキツキツ生活がオチだろう」とあざ笑った。

 董剛は「キツキツと言えばキツキツだけど、オレはこの会社はいいと思うよ。一時的な苦労くらい何ってことはない。将来はとても開けているんだから」と淡々と語った。劉波は董剛が奇想天外なことを考えるとあざ笑った。

 董剛のいる会社は資本金が少なく、規模も小さかったが、いくつもの価値の高い特許を持っており、社長自身が技術畑の出身で、企業管理手腕もあった。あるベンチャーキャピタル企業がこの会社と社長の実力を見込んで、会社に8000万元の投資を行うと、会社はたちまち急速発展の段階に入り、人材を集め、生産を拡大し、市場を開発して、1年目で投資を回収し、2年目で黒字を達成し、3年目で別のベンチャーキャピタル企業3社から計2億元の投資を受け、会社はさらに新たな飛躍的発展を遂げた。

 社長は、創業当初からいる社員に感謝の気持ちを持っており、董剛をマーケティング部の部長に抜てきした。4年目にして会社は上場に成功し、当初社長が董剛に贈った100分の1の株式は、たちまち数百万の価値となった。創業当初からの社員であるため、彼はさらに会社の副社長に抜てきされた。

 劉波はというと、すでに数十年発展してきた外資企業であるため、会社はとても安定し、ぬるま湯に漬かった状態だった。劉波の給与は9000元にまで上がったが、依然として平社員にすぎなかった。彼のいる部署は彼よりもベテランが何人もいて、部長もとても張り切って仕事をしていて辞める気配は全くなく、彼が抜てきされるのははるか先であろうと思われ、劉波はとても暗たんとした思いに駆られていた。自分がこの会社で死ぬまで働いても、董剛が今まで稼いできた金額はとてもじゃないけど稼げないだろうと思うと、自分の将来に迷いが生じた。

 職場とは、このようなものだ。どんなに一生懸命自転車をこいでも、ランドローバーには追いつけず、自分の居る職場によって自分の将来が決定される。自転車は安定した道を走るのには適しているが、ランドローバーは山越え谷越えて、より大きなリスクに遭遇すればさらに大きな収穫とさらに遠くの風景を見ることができる。職場の道は最初から、快適で気楽な自転車を選ぶか、それともリスクとチャンスが併存するランドローバーを選ぶかという選択を迫られるのだ。これは職場で働くサラリーマンは真剣に考えるべき問題である。

 

翻訳にあたって

 中国語文中の「月光族」は、毎月稼いだお金を翌月全て使い果たしてしまう人を指す言葉。ここでいう「光」とは、「何もない」の意味。稼ぎ自体が多くなく、毎月ギリギリの生活を送っている人、あるいは稼いだだけ全て使ってしまう貯蓄観念の薄い人のことを指す。中国では日本の「公務員」と同じように、国有企業や政府機関などが安定した職場と考えられ、一番の人気を誇るが、外資系も一般的に給与が高いため、人気が高い。しかし、創業したての企業に入れば、若いうちから重要な仕事を任され、会社と共に成長して高給を稼ぐことができるので、野心的な若者は魅力を感じるだろう。ちなみに、中国では給料のより高い会社に転職するのは当然のことで、日本のような転職回数の多さがマイナスになるという考え方はない。むしろ、才能があるから転職でき、より有利な条件の会社に移ることができるとみなされる。 (福井ゆり子)

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