心に秘めたブロッコリー

2021-08-31 16:12:39


耿艷菊=作

鄒源=イラスト

彼が彼女を見たのはこれで6回目だった。街の小さな食堂で、彼女はいつも一人窓際の席に座り、テーブルの上には毎回ブロッコリー炒めが一皿だけ置かれていた。1人なのに、箸はいつも2膳置かれているので、誰かを待っているのだろうか? しかし、彼女が席を立つまで、誰も現れることはなかった。

7回目、テーブルの上には本が1冊置かれていた。こっそり見てみると木心の『コロンビアの倒影』だった。彼女も木心が好きなのかと思うと、彼女に対する好感がなぜか少しアップした。何口か食べたところで彼女は電話を取り、慌てて去っていった。木心の本はテーブルに置かれたままで、彼はひそかに喜び、その本を持ち去った。

それから、彼はお昼になるといつもより30分前にその小さな食堂にやって来たが、彼女がやって来ることはなかった。諦めかけていた時、彼女は疲れ果てた様子で食堂の入り口に立っていた。これが8回目の出会いだった。彼は彼女がいつも座っている窓際の席にいたが、彼女を目にするなりあわてて立ち上がった。彼は自分がうっかりしていたことに気付き、急いでテーブルに置いていた木心の本を高く掲げた。彼女はほほ笑んだ。とても温かな笑みで、素敵だった。彼の心は軽やかに踊った。彼らはまるで久しぶりに会った古くからの友人のように一緒に窓際に座ってご飯を食べた。

彼と彼女は出会いを9回、10回……と重ねた。

2年後、彼女は彼の妻となった。彼の家の食卓にはいつもブロッコリー炒めが並んでいた。彼らは愛し合って幸せに暮らした。でも、彼の心には人知れずずっとわだかまりが残っていた。

1年また1年と過ぎていったが、このわだかまりはますます強いものとなっていった。食堂のブロッコリー炒めを思い出すと、いつも妻がいったい誰を待っていたのかと考えずにいられなかった。彼は自分の書斎に閉じこもり、日記に長年心に秘めてきた気掛かりを書き記した。彼女が部屋の片付けをしていたとき、たまたまその日記を目にして、彼の心の内をとうとう知ることになった。

その夜、彼が帰ってきたとき、彼女は早々に晩御飯を作り終えていて、食卓の上には彼女が彼のために特別に作ったブロッコリー炒めがのっていた。彼は眉をひそめたが、彼女はその理由を知っていたため、静かに昔話を始めた。

あの時、彼女は卒業してすぐにこの都市にやって来て、仕事探しに奔走していた。あるとき、バスでおしゃれな格好をした女性に携帯電話を盗んだという濡れ衣を着せられ、多くの人に蔑みの視線を投げ掛けられ、屈辱の涙を流した。しかし、その時バスの中に彼女を信じてくれた人が一人だけいて、彼女の潔白を証明する手伝いをしてくれた。彼女はその温かな落ち着いた容貌をしっかり記憶した。次のバス停で降りた彼の手にはブロッコリーが入った袋が提げられていた。

その日、彼女は花粉症でマスクをしていたため、彼には彼女の顔が見えなかったが、彼女は彼の顔をしっかりと覚えていた。彼女は間もなく仕事を見つけ、この街で生活できるようになってからいつもしたことは、彼を探し出すということだった。

こんなに大きい都市の中で、人一人を探すのはとても大変だった。しかし幸運なことに、探し当てられたのだ。彼女と彼が働いていた場所はとても近く、道一本隔てただけのところだった。彼女はオフィスビルから彼がお気に入りの街角の食堂でお昼を食べているのを見掛けた。彼女は長いこと考えていたが、この食堂に行ってみることにした。

彼の妻が待っていた人とは自分であったことを、彼は悟った。彼こそ妻が心に秘めたブロッコリーだったのだ。

 

翻訳にあたって

木心(1937~2011年)は浙江省烏鎮生まれの画家・作家・詩人。82年より米国・ニューヨークに定住し、美術・文学の創作活動を行った。80年代には「一行式俳句」の創作に取り組み、台湾の自由句の発展に影響を与えている。2005年に故郷の烏鎮に戻り、その後に出版したのが、この文章に登場するエッセイ『コロンビアの倒影(哥伦比亚的倒影)』である。誰もが知っているベストセラー作家ではないため、読んでいる人の趣味の良さが感じられる本だろう。

ブロッコリーはここで出てくる「西蓝花」のほかに、「青花菜」「绿菜花」とも呼ばれる。「素炒西蓝花(ブロッコリー炒め)は、小房に切り分けたブロッコリーを30秒ほど湯通しし、それをニンニクとともに油で炒め、最後に醤油あるいは塩・味の素などで味を調える素朴でポピュラーな家庭料理。

 (福井ゆり子)

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