春節が後押し世界の消費 自然を畏敬 「旧暦」の恩恵

2021-02-18 16:12:33

陳言=文

今年の春節(旧正月)は今月12日だ。

筆者はかつて日本に留学し、その後も日本で生活していたが、毎年春節を迎えるたびに何か欠けていると感じたものだ。これは、中国の古里に戻り、両親や兄弟姉妹と一緒に年越しができず、かつての同級生や同僚とも旧交を温めることができなかったからだと思う。年齢を重ねると、春節に帰郷しないわけにはいかないとますます思うようになった。中国では新暦(太陽暦)の元日を迎えるのを「過新年」といい、春節を迎えることは「過大年」というように「一大事」だ。日本など海外にいて、その「一大事」を祝うことができないと、その後の丸1年は何か物足りなさを引きずってしまう気がする。

 

農業社会にふさわしい旧暦

今年の春節が来る前に、昨年の中国の農歴(旧暦)を振り返ってみよう。

昨年の4月23日は旧暦では4月1日であり、1カ月後の5月23日も旧暦の4月1日だった。つまり旧暦では昨年は4月が2回あったのだ。閏月だ。

筆者は本来、閏月に何の感慨も持っていなかった。1968年に学生の上山下郷運動に参加し、河南省の農村で働いた時、村人から「閏7月」というのをよく聞いた。その年の夏は特に長く暑く感じた。当時、年に7月が2回あることなどまるで理解できなかったが、ただあの年の夏は暑かったと記憶している。農村に着いたばかりの時は生活様式が全く合わず、毎日朝から晩まで野良仕事に追われ、疲れ果て、特に暑いと感じた。もっとも、7月が2回もあったのだから、確かにその年の夏はことのほか長く感じられた。

69年に初めて河南の農村で旧暦の年を越した。それまで北京で春節を迎えた時は、爆竹を鳴らしスイカやヒマワリの種をかじるくらいだったが、農村はまるで違った。春節が近づくと野良仕事は減り、村民は顔を合わせれば、市へ行って何を売り何を買うかという話で持ち切りだった。

年越しを迎えると、各種のスローガンが減り、何百年も前から伝わる地方芝居のせりふや歌が彼らの口元に戻って来る。私はこの地方の方言はよく分からなかったが、その調べは彼らの心から私の心にも流れ込んできた。ここで経験した春節のしみじみとした思いのせいか、北京に戻って京劇を見ても何も感じず、あの豫劇(河南省の地方芝居)のさまざまな旋律を心から好きになっていた。

春節は人々に希望の到来を感じさせる。春節前後の河南は大変寒いが、「春」という一字が温もりを感じさせた。村人たちは年越しが近づくと必ず市へ行ってカレンダーを買ってくる。そこには政治的な宣伝画も美女や美しい景色も載っておらず、旧暦がびっしり印刷されている。除夜(大みそか)は旧暦では12月30日であり、新暦のように12月31日と決まっているわけではない。

日本にいた時、ある年に友人と大みそかに会う約束をした。筆者は新暦の12月30日と思い込み、プレゼントを買って先方にあいさつに行った。ところが、これは筆者の勘違いで、結果的に一日早く訪問してしまい、お互いにかなり気まずい思いをしたことを覚えている。

通常、新暦の新年は旧暦の新年より1カ月以上早い。この間の1カ月は中国の農村では野良仕事は終わっていないが、次の年の農作業の準備をするには早過ぎる。

日本から中国に戻ると、周りの多くの友人はきちんとした標準語を話すようになっていたが、実家は田舎にあるので新暦の元日に帰郷して年越しを祝うわけにはいかない、と言っていた。なぜなら、そうすると(まだ農作業をしている)実家に迷惑をかけるからだ。1カ月後の春節の時に帰郷して、やっと暇になった家族や友人らと会うことができるのだ。

 

昨年の春節の時期、中国人旅行客向けに販促キャンペーンが行われたタイ・バンコクのスワンナプーム国際空港(東方IC)

 

連綿と続く自然への畏怖

新暦あるいは筆者の周辺の友人皆が使う「西暦」は、キリスト誕生の年を起点にしており、現在、世界の大多数の国で使われているのが新暦だ。西洋の工業生産能力や文化的な影響力によって、西暦は世界の暦法の主流となり、公用の基準になっているので、この方が当然便利だ。

中国の農村では相変わらず旧暦を使っており、特定の個人を暦の始まりとするのではなく、月の変化に基づいて暦を決めている。そうすれば毎月15日には間違いなく満月となり、何の誤差もない。

日本にも二十四節気というのがあるが、それ以上に季節について話すことが多い。中国で季節を語る場合、それは種まきや収穫などの農作業と直接結び付いている。

毎年4月中旬に巡って来る「谷(穀)雨」は、「雨生百穀(雨が百種類の穀物を成長させる)」というように、この時期に田んぼに稲の苗を植え畑に作物の種をまくのは、必要な雨水が最も豊かだからだ。「穀雨」の例から分かるように、その時期に行うべき農作業ははっきりしている。もし筆者が西暦から種まきの時期やその切迫性、自然に対する期待を表す言葉を探そうとしても見つけられない。

月の満ち欠けを観察して暦を算定するにせよ、旧暦に二十四節気を加えるにせよ、筆者は昔から変わらない中国人の自然に対する畏敬の念を感じる。こうした畏敬の念は工業化が到来した後も中国人は決して放棄せず、都市の近代的な生活がどんなに変化しようとも、農業と農村を源とする伝統は、誰もが毎日の生活に必要な呼吸や食事のように連綿と受け継がれている。

筆者は春節を廃止すべきだという議論は全く聞いたことがない。逆に中国経済の発展が強大化するにつれ、ますます多くの国の指導者たちは、春節が来ると中国や自国にある華僑・華人社会に祝意を示すようになっている。筆者は、春節に祝意を示すこうした国は今後もっと増えると確信している。

 

世界の消費にビルトイン

昨年の春節に延べ30億人の中国人が国内外を移動したことで、(新暦の)元日後に世界が中国の祝祭日を感じる注目の時期となった。今年は新型コロナウイルスによる感染症拡大の影響を受けて、中国人の出国も国内旅行も大幅に制限されるだろう。だが消費ブームは大幅に下落することはなく、むしろ電子商取引(eコマース)と越境型eコマースの役割が高まることによって、物流面で新たな特徴が現れ、これが消費を維持・拡大するだろう。

クリスマスセールと、それから1カ月余り後の春節セールは今後、世界の消費動向にしっかりビルトインされるだろう。ポスト・コロナの世界を想像すると、中国の消費市場の拡大につれて春節もさらに深く世界に組み込まれ、中国の祝祭日が世界文化において新たな巨大な経済的・文化的な意義をもたらすだろう。

世界には元日の他にもまた春節があり、特にこのような自然に対する畏敬をテーマとした祝祭日は世界文化を豊かにし、企業にとってはビジネスチャンスであり、消費者にとってもビッグチャンスとなるに違いない。 

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