全人代の出稼ぎ労働者代表 生の声を政治に反映したい

2019-07-29 15:34:44

 

以前勤めた製陶所で、従業員の権益保護業務の実施状況を確認する胡小燕さん(新華社)

 

胡小燕さんは1974年に四川省広安市の農村に生まれ、中学校卒業後に16歳で実家の農業を手伝い、幼稚園教諭を2年間務めた。98年、彼女は広東省仏山市に出稼ぎに行き、製陶所でボイラー係から管理職までの道を着実に歩んできた。2008年には出稼ぎ労働者として初めて、第11期全国人民代表大会(全人代)の代表に選ばれ、政治の舞台に躍り出た。

現在、胡さんは公務員試験に合格し、同市三水区総工会(組合)の副主席となり、新たな職場で労働者の権利と利益を守るために奔走し続けている。胡さんは言う。「末端からやって来た私は末端の人々が何を求めているのかを一番知っているので、奉仕活動に尽力するつもりです」

家族と離れて広東へ

胡さんは常に、自分は時代に恵まれた人間だと言っている。1998年に、初めて内陸部の四川省の実家から東南沿海の広東省仏山市に出稼ぎに行った時は3日間かかった。2歳になったばかりの双子の娘のことが気掛かりだったが、家にある2万元の負債のために出稼ぎをすることが、当時24歳だった胡さんが思い付いた唯一の選択肢だった。

「あの頃は家を建てられるぐらいの金額の借金があり、夫一人が働いて稼いだお金だけではいつ返済できるか分かりませんでした。当時は多くの親戚や友人が広東省まで『砂金採り』に行くと言っていて、私の裁縫の先生も出稼ぎに行きました」。こうして彼女は故郷を出る決心をした。彼女のような出稼ぎ労働者は、98年に四川省だけで800万人以上いた。

初めて仏山市に来た時の思い出を胡さんは忘れることはない。「子どもの泣き声を聞くのがつらかったので、実家に電話しようとは思いませんでした。手紙は何度も書きましたが、どれも途中で涙で濡れてしまい、一通も書き終えたことがありません」。節約のため、10平方余りの部屋を4世帯で借りて、それぞれ月75元の家賃を支払った。部屋には1のマットを4枚敷き、その間にカーテンを設置して仕切りにした。

広東地方の言葉もしゃべれず、自転車にも乗れなかった胡さんは、3カ月以上かかってようやく月給500元余りの仕事を見つけた。夫婦は家賃節約のためにそれぞれの工場の宿舎に引っ越し、同じ町に暮らしていながら別居する生活が始まった。3年後、胡さんが夫と同じ工場で働くことになり、ようやく夫婦が一つになれた。

 

現場では生産状況だけではなく、労働者から生活のことを話してもらう(新華社)

苦労が報われる職場環境

労働者は一般的に負担の少ない職種を選ぶが、胡さんは違った。胡さんが紹介された仕事は、製陶所で窯から出たばかりの陶器を検品するという内容だった。焼き上がったばかりのタイルの温度は1200度にも達する。厳しい労働環境であり、製造ラインの稼働に異常があれば、退勤時間が過ぎても不合格品を運搬しなければならなかった。以前の仕事よりきつかったが、給料は良く、しかも専門技術を持った熟練工と交流することもできた。それで胡さんは、空き時間を利用して作業者から技を学んだ。彼女は1日を、8時間働き、8時間自分のことをし、残り8時間は勉強するという三つに分け、タイルの選別、プリント、施釉(うわぐすり塗布)などの技術を徐々に学んだ。ある程度の技術を持っていればこそ、自分が替えのきかない存在になれ、将来もっと大きく進展できると考えていた。

2002年6月、胡さんは新明珠製陶所に移り、選別者になった。ある日、勤務引き継ぎの時、胡さんは前の班の作業者によって、うわぐすりがきれいに塗られたタイルが1級品(優良品に次ぐランク)に分けられているのを見た。「こんなにきれいなタイルが、少し研磨が甘いというだけでランクを下げられるのはもったいない。少しやり直せば優良品になるのに」。そう考えた彼女は、作業員に手本を見せ、彼らにタイルの研磨技術を教えた。その様子を見た副社長は、彼女を品質検査員に昇格させた。

04年、胡さんは昇進試験に合格して作業場の管理職になった。彼女は当時のことをこう振り返る。「あの頃は現場の従業員の採用、育成、評価、製品の生産管理を全て自分一人で担当していました。時には朝5時に出社し、夜11時まで働いていました。一体どうやって頑張って来たのか分かりません。足に水ぶくれができれば、そこに針で穴を開けて水を抜き、翌日にはまた出社しました」。時が流れ、胡さんの苦労は徐々に実を結び、工場から優秀な管理者と評価されただけではなく、仏山市の「最も優れた10人の出稼ぎ労働者」の1人に選ばれた。

労働者の声を全国に伝える

08年、胡さんは全人代の代表に選ばれた。彼女はその時、「夢にも思わなかった。なんて幸せなんだ」と思ったが、「みんなのために何ができるのか」と考えた。多くの出稼ぎ労働者の目には、胡さんが自分たちの代弁者として映っており、胡さんに自分の状況を伝えに来る人々がとても多かった。

「そういう問題を受けても、どう対処していいのか分かりませんでした。私も単なる労働者であり、何でもできるわけではないんです」と胡さんは思ったが、「全人代の代表になった以上、誰かの力になれるならできる限り力を尽くし、少しでもいいから手伝おうと考えました」と話す。10年、胡さんは出稼ぎ労働者やその家族が戸籍を登録できるように、政府が土地を出して1戸50平方の集合住宅を建設し、労働者に安価で提供するという提案を出した。当時、多くの人々がこれを現実的ではないと考えたが、胡さんは気にせず、数多くの出稼ぎ労働者がインターネットに投稿したコメントに従って意見を提出しただけだと言う。「私の考えは単純です。都市部に家を持つことを夢見る出稼ぎ労働者の願いを大胆に訴え、政府に人々の心の声を聞いてもらいたかっただけなのです」。その後、その提案は政府に関心を持たれて、返答があり、翌11年に広東省は新しい政策を実施し、条件に合った出稼ぎ労働者も「保障型住宅(格安分譲住宅と格安賃貸住宅など)」に住めるようになった。

現在、公務員として働く胡さんのカレンダーは仕事のスケジュールでいっぱいだ。机の上には「問い合わせ」「移転」「賠償」などの、対応が必要なファイルが部門や種類別に置かれている。忙しいにもかかわらず、勉強は止めておらず、大学の通信教育を使って独学で法律の専門課程を勉強しており、今年卒業する。「各種新興産業の登場によって新たな問題や要求が出てくるので、絶えず勉強し、時代に追い付かなければなりません」と胡さんは話す。

四川省の農村から広東省の仏山市に来て、末端の労働者から全人代の代表になった20年の道を振り返った胡さんは、改革開放の波に乗り、夢にまで見た貧困脱却を実現できただけではなく、想像もしなかった素晴らしい人生を送れていることに感謝している。

 

人民中国インターネット版

 

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