「殿堂入り」の女王・李娜 夢のテニス学校に奮闘中

2020-07-14 13:47:06

 

WTAツアーの武漢オープンで、ファンとのラリーで久しぶりにラケットを振る李娜(昨年927日、武漢)(東方IC 

いまアジアで最も人気のテニスプレーヤーと言えば、大坂なおみの他にはいないだろう。大坂は22歳ながら、すでにグランドスラム大会(全豪、全仏、ウインブルドン、全米の四大大会)の二つの女子シングルスで優勝。昨年は女子シングルス世界ランキング1位にも輝いた。その大坂より前、二つのグランドスラム女子シングルス(全豪、全仏)で優勝したアジアのテニスプレーヤーは、中国の李娜だけだった。李娜こそが、アジアで初めてグランドスラム女子シングルスで優勝した選手だ。大坂なおみが脚光を浴びている今、李娜は新たな人生に歩み出している。

 

全豪オープンで優勝し、二つ目のグランドスラムのトロフィーを手にする李娜(2014125日、メルボルン)(東方IC 

殿堂入りは最高の喜び

昨年7月、ピエルス(女子、フランス)、カフェルニコフ(男子、ロシア)と共に、李娜は国際テニス殿堂入りを果たした。アジアの選手としては初めてだった。国際テニス殿堂は、1954年に設立。これまでに、20余りの国と地域の250人を超す選手と、テニス界に大きな功績を残した人が選ばれている。殿堂入りはテニス界で最高の栄誉であり、単に傑出した成績を残したというだけでなく、世界のテニス史に不朽の貢献があったことを意味している。

その選考基準によると、選手は引退後5年で選出資格を得て、記者や有識者、殿堂入りメンバーなどで構成された投票グループの投票により毎年選ばれる。当選には総票数の75%以上が必要だ。2014年に現役を引退した李娜は、初めてその資格を得た年に選出され、スピード殿堂入りとなった。

李娜は言う。「自分の名前が、多くの伝説的なプレーヤーの名前と並んで刻まれることは、プロ生活で最大の喜びです。殿堂入りは、『どんなもんだ!』と胸を張れます。グランドスラム大会で優勝した時と同じくらい興奮しています」

李娜の成績から言えば、この栄誉は当然の結果と言える。11年の全豪オープンでグランドスラム大会で初の決勝に進出。中国そしてアジアのトッププレーヤーになった。それまで同大会での女子シングルスの最高成績は、伊達公子と鄭潔のベスト4だった。

全豪オープンの後、李娜は同年の全仏オープンでついに優勝し、歴史に名を刻んだ。李娜は13年、再び全豪オープンの決勝に進出したが準優勝。翌年、三度目の正直で全豪の栄冠に輝き、二つ目となるグランドスラム優勝カップを手にした。

11年の全仏オープンの決勝では、中国では1億1600万人がテレビで試合を見守った。李娜のプロ選手としての活躍は、中国でのテニス普及に大きく貢献した。国際テニス連盟によると、現在の中国のテニス人口は1500万人で、テニスが五輪種目となった1988年当時から1400万人も増えている。テニスコーチの劉碩は、「李娜の成功で、多くの中国人テニス選手が自分もできるという自信を持ったんです」と話す。

李娜は2014年に現役を引退した。「みんながいつまでも私のことを覚えていてほしくはないんです。本当です。だって、ずっと私を覚えているということは、中国のテニスに成長や進歩がないということですから」と李娜は話す。

 

昨年の全豪オープンで優勝した大坂なおみにトロフィーを渡す李娜(昨年1月、メルボルン)(東方IC 

「私は私のためにやるだけ」

中国の若者にとって李娜は時代の寵児だ。それはテニスの成績によるものではなく、彼女の人としての魅力によるものだ。「私は誰かのためにテニスをやってはいないし、誰かのためにしようとも思いません。私は私自身のためにするだけです」。おそらくこの一言が、彼女の言葉として一番よく知られたものだろう。

湖北省武漢市出身の李娜は1989年、7歳の時から本格的にテニスを始め、以後、テニスが生涯最愛の友となった。彼女のテニス人生は2008年を境に二つに分けられる。同年の北京五輪で李娜は女子シングルスでベスト4となり、五輪の同種目で中国のテニス選手として最高の成績を上げた。またこの時から、李娜は自分の今後について真剣に考え始めた。本当のプロテニスプレーヤーとはどういうものか体験したいと。

李娜はその年から、中国で初の女子プロテニス選手としての道を歩み始める。「その時、私はもう26歳で、プロのテニス選手としては引退してもよい年齢でした。毎日時間に追われる感じで、『時は我を待たず』という感覚が常に心に重くのしかかっていました」

プロへの「ソロデビュー」は、チャンスという以上に困難とプレッシャーを意味する。その頃の李娜の年間獲得賞金は、わずか7080だった。だが自身のチームの運営費用は、700万元(現在のレートで約100万)近くまでかさんだ。「夫の姜山に最悪のケースで計算してもらったら、下手すると夫婦二人の貯蓄をはたき出して一文無しになる、ということでした」と李娜は振り返った。

幸いにも数年の模索と奮闘を経て、「ソロ」の李娜は大きく羽ばたいた。プロとしての最盛期は過ぎた29歳だったが、ついに李娜は夢にまで見たグランドスラム優勝を手にした。それでも李娜は謙虚だ。「自分が国の英雄だなんて、一度も考えたことはありません。全力で自分の務めを尽くしただけで、その結果が大げさに言われているんです。私は一人のスポーツウーマンで、自分のためにやっているだけです」

しかし実際、李娜ははっきり分かるスピードと強さで、中国テニス界の発展を後押しした。グランドスラム2大会優勝の後、中国のテニス大会は雨後のたけのこのように急速に増えた。李娜の全仏オープン優勝以前、中国にはチャイナオープンと広州オープン、上海マスターズ大会(ATP=男子プロテニス協会主催)のツアー3大会しかなかった。ところが、昨年は中国で13大会が行われた。また、WTA(女子プロテニス協会)年間ツアー大会では、6分の1を占めるまでになった。

トップ選手は育てない学校

現役を引退して5年。李娜はさまざまなテニスの普及活動に参加し、家庭での生活以外、ほとんどの精力をこれに注ぎ込んでいる。彼女の将来の夢は、「チャンピオンの育成を目的としない」テニス学校を開くことだ。

 

テニスの公開レッスンで子どもたちに指導する李娜(昨年9月、武漢)(東方IC 

「現役引退から数年間、私は主に青少年の育成に取り組んでいて、プロ選手のコーチをやるつもりはありません。私の夢はテニス学校を開くことです。でも、チャンピオンを育てるのが前提ではありません。テニスが好きな青少年に快適な練習環境を作ってあげて、このスポーツの楽しさを味わってほしいのです」

しかし、まさに彼女がこうしたテニス学校を作りたいがゆえに、開校への道のりは極めて難しい。「協力できそうな相手に私は言うんです。お金もうけのためではないし、今の状況だと、この先少なくとも10年は損をしますって(多くの投資者はここで退散する)。おそらく彼らからすれば10年は長過ぎる、ということなのでしょう」。李娜としては何とも致し方ない。

このテニス殿堂入りの名プレーヤーは最近、テニス学校を作ることは、テニスの試合よりはるかに難しいとたびたび語っている。ただスターという金看板と資金の注入だけでは足りない。テニス学校を作るには、さらに多くの外的な条件が必要だ。それは、中国の青少年スポーツにふさわしい教育システムだったり、一定レベル以上の試合の開催システムや入学のハードルを下げることなどだ。

これは、想像していたよりずっと難しかったが、テニス学校の開校準備は途中で止めないと李娜は明らかにしている。どうやら彼女の事業のメインは、依然としてテニス学校のようだ。「もちろん、やっぱり私はテニスを中心にいろいろやっていきますよ」。李娜は、現役時代のプレー同様、痛快に言い切った。(高原=文) 

 

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