日中平和友好を熱望される両陛下の思い

2019-04-17 14:02:26

文=法政大学教授 王敏

忘れがたい初見の瞬間

 ご退位される天皇を皇太子時代、少し離れた位置からしっかりと見ることのできる機会がありました。

36年前のことになります。私は1982年の春、宮城教育大学に留学して帰国する折、詩人の草野心平氏に招かれて、東京駅近くの帝国ホテルで昼食をいただきました。終わってホテルの玄関ロビーにでたところ、当時の皇太子ご夫妻が人並みを通り抜けされるところでした。偶然の一瞬間でした。心平氏から「次の天皇になる方だよ」と説明されたのです。ご夫妻はともににこやかに手を振られて、優しい印象を受けました。すてきな瞬間をいただいたような感銘が今も胸を熱くします。ご退位の報道に触れるたび思い出すのですが、当時は「天皇」についての知識も十分でなく、お二人との直接の出会いが後に来るとはとうてい思いもしませんでした。


思いがけぬ出会い

日付まではっきり覚えています。2007226日です、夜になっていました。それほど寒くないおだやかな夜でした。

すこやかな天皇・皇后両陛下にお会いできました。直接にお会いする機会に恵まれた被招待の位置づけでした。天皇ご夫妻へのご進講講師の政策研究大学院大学・青木保教授(当時)が、現代東アジアの文化交流の現状について知りたいという希望に沿うとして私を推薦されたからです。青木教授とお弟子さんの一橋大学・足羽與志子教授にご一緒しました。東京駅から宮内庁差し回しの車で皇居に入りました。案内されたのはせいぜい10畳ぐらいの和室で、椅子付きの長方形のテーブルだけで座れば部屋いっぱいという狭さに、華美な印象は少しもありませんでした。椅子も卓も質素さにびっくりしました。中国人の生活習慣を気づかわれて用意されたのかもしれないとふと思いました。

両陛下は部屋に案内してくださいました。両陛下と真向かいに座ることになるとすぐわかりました。両陛下は澄み切った眼にやさしさを浮かべて私たちを改めて迎えていただきましたので、私の緊張も薄まったのを覚えています。両陛下のお勧めで、私は椅子に座りました。青木教授と足羽教授は斜に座りました。

広くない部屋で両陛下と向かい合ってお話をさせていただくこの初体験に臨んで、脳裏には「思無邪(邪無し)」という言葉が浮かびました。これは孔子が『詩経』の真髄である純真の大切なことを説くものです。

何もかも忘れる親しみが湧きました。おだやかな両陛下に吸い込まれていったのです。

両陛下のご質問に一つずつお答えしていく形になりました。日中を中心に東アジア地域との文化交流への深い関心と造詣にびっくりさせられながら進みました。話題は実にさまざまな分野に及びました。質問のお言葉や内容はおおむね次のように記憶しております。

最初のほうで、明治維新後の近代中国の日本留学とその成果についてテーマになりました。日本人が創った西洋語訳である大量の漢字語の中国逆輸入でした。

清末、最難関の科挙試験合格者たちを日本留学に派遣して、てっとりばやく西洋の近代教育を学ばせたこと、西洋発信の政治や経済、社会、文化、宗教などの知識を日本から取り入れた中国入りしたこと……日中の近代交流にかかわる歴史事実に、両陛下は深い関心を示されました。

植物をかかわる話題も弾みました。関心の切り口が陛下のお印の榮(梧)になりました。梧とは、貴祥が宿る樹木を意味するところは日中共通だと確認されると、感慨深い表情をされました。皇后は、ご自分の花は白樺だとおっしゃりながら時候の花、桃の活け花をお見せになって、昭和天皇妃の香淳皇后のお印は桃だと教えてくださいました。

 中国文化を大量に吸収していた万葉集の時代の日本は花といえば梅でした。『万葉集』の118首は梅を詠んだ歌であり、萩を詠った歌(138)に次ぐ第2位です。梅の花は中国伝来の珍重な植物であり、薬用や食用の価値があり、貴族階級は寵愛した。梅も桃も大陸渡来ですから皇室は大切にしてきたといいます。

秋篠宮殿下の話題なりました。学習院大で中国と大いにかかわる研究をされたそうです。長鳴鶏の生態の研究のために、雲南省に行かれて現地調査されて卒論を完成されたといいます。

このように天皇ご一家にとって、中国にまつわる古今の逸話がつねに身近なもので楽しみな話題となることがよくあると聞きました。「ニイハオ」などの日常の中国語を、両陛下はきれいに発音されました。

皇后さまが語られました。1992年の訪中した折、西安で老人が一生懸命話しかけてきました。言葉がわからなくても、中国人の庶民の熱意がひしひしと伝わってきました。日本に寄せる何かを感じ取ったといいます。そのとき小学校の音楽授業で教わった揚子江(長江)の歌に繋がりました。満々と水をたたえた大河が、昼も夜も滔々と流れて大陸の沃野をうるおす、という歌詞でした。

陛下はつねに日中、また日韓の平和な交流を希求されていることを話されました。日韓の平和友好に及ぶと、桓武天皇の生母が百済王国の武寧王の子孫であることに言及され、古代日本に五経博士が代々招へいされるようなった史実を取り上げられた。東アジア地域の相互理解の深化が悲願だと述べられました。

串挿し団子が出てまいりました。普通より小口です。陛下のご説明によると、皇后さまが素材は皇居の森で、その朝一番にみずから手摘みされた蓬でした。

 清新な香りでした。皇居の森の緑は四季折々絶えません。思わず「チャングムの手料理よりもおいしい」と口からこぼれ出ました。その頃、韓国ドラマ「チャングムの誓い」が流行り、私も嵌まっていたからです。すると、両陛下が楽しそうにお笑いになりました。迷惑な言葉を発してしまったかと心配からほっとした気分になりました。

陛下が宮沢賢治の翻訳と研究の中でもっとも感じたことについてお聞きくださいました。私は、平和の願いを実践していこうとする平常心が、日本人も持っており、中国人も日本人も同じ人間だと思い知らされたとお答えしました。

両陛下が何回も頷かれました。

両陛下は日本の知恵と教養と風格を一身に凝縮してお持ちだと終始、印象付けされました。真向かいの両陛下より燦燦と光を浴び続けたように思います。半ばで夕食もいただきました。9時を回っていたでしょうか、予定された時間が30分も超過したときに、お別れの時間となりました。

「日中友好のために」!

両陛下が寒い風が吹き通る玄関で手を伸ばされました。そっと手を添える優しい握手だったのです。

私たちを乗せた車が静かに離れました。車から見えなくなるまで両陛下のお姿が見送ってくださいました。

翌日の新聞で知りました。皇后陛下が腸内炎で熱だったというのです。心を痛めました。振りもお見せにならなかったことにいまさらながら恐縮しています。

 

時を綴った桜

201798日のこと。

北京・人民大会堂で中日国交正常化45周年記念パーティーが盛大に開催された。周恩来の姪である周秉徳女史がスピーチで皇后さまに触れられ、感謝の意を込めました。

新中国が成立してまもなく、伯父は日本の友人に対してこう述べました。〈私は日本で生活したことがあり、日本に対する印象はとても深いものである。〉」

1974125日、病身であった伯父は日本で生活していたことを思い出し、情愛深く言いました。〈私は日本から帰国してすでに55年です。1919年の桜が満開の時期に戻って来ました。〉……伯父の遺志を継ぐために、19794月に伯母の鄧頴超が日本を訪れ、温かい歓迎を受けました。そして私や周家の他に親族たちも何度も日本を訪れました。日本の皆さんは伯父に対して尊敬と敬愛してくれる印象が深いです。20118月にNHKで4日連続してゴールデンタイムに「家族と側近が語る周恩来」が放映されました。日本にいる友人が、このテーマが日本では大変人気を受け、日本の皇后陛下もご覧になり、周恩来総理を大変尊敬していると教えてくれました。」

周秉徳女史に言及された「皇后陛下」のお言葉の背景には、2012420日の出来事に繋がります。その日、中国政治協商委員会を務め、中国新聞社の副社長でもあった秉徳女史が妹の秉宜女士、弟の秉華と秉和さんご一行が小雨の中、法政大学の王敏研究室を訪ね、外堀沿いの桜道で王敏研究室の留学生たちと共にミニ討論会に参加されました。19194月の帰国前に、留学生の周恩来に書かれた「雨中嵐山」という詩がテーマでした。

その夜9時ごろ、皇后さまが研究室にお電話をしてくださり、日中平和に貢献された周恩来に感謝する温かいお心遣いでした。無論、皇后さまの御意向を直ちに周秉徳女史にお伝えして、皇后さまへのお礼をお預かりいたしました。

周恩来の姪と甥。左から周秉華、周秉和、周秉宜女史、(1人置いて)周秉徳女史。右端は周秉宜女史の夫の任長安。
右から3番目は王敏。ほか3人は留学生

このような経緯があって、2017829日、私が周秉德女史の自宅を訪ね、来る98日、中日国交正常化45周年記念式典のスピーチの原稿内容について語り合うことになったのです。

2017829日 周秉德女史宅にて

201657日、妹の周秉宜女史が香川県観音寺市にある大平正芳記念館の開館式典のために北京から駆けつけてきました。近くに三笠宮様の植樹記念碑があると伺い、記念写真を求められました。宮さまのご冥福をお祈りしたいと思われたようです。



紡ぐ細い糸

201551日のこと、侍従さんを通して3の午後、両陛下を訪うことになりました。東京駅で宮内庁の車で宮中入りは前回と同じでしたが、この日、両陛下にお会いしたのは私ひとりでした。

 最初の話題は、2014年年末に発刊した拙著『禹王と日本人』(NHK出版)をお読みになった感想になりました。両陛下から身に余る感想をいただきました。日本の風土に現存する治水神・禹王信仰の研究調査に興味を示され、記紀にも登場した禹王を通して、大陸との文化交流をよりどころとする日本文化と皇室の役割について再認識させられたとおっしゃいました。今後も日中文化交流について研究を継続してほしいとの励ましを賜りました。

私が恐縮したのはいうまでもありません。「日々日本から学んでいます。日本を研究することと中国を研究することとは補完しあっています。拙著も日本の社会文化と国民に教わった事実の体現に過ぎないから、日本にお礼を申し述べなければ」と申しました。

禹王信仰に関連して東アジアの農耕文化の中で、男性が治水し耕し、女性が養蚕と製糸するというように生業に棲み分けがありました。日本の皇室行事にそれが反映されていることは、共有の文化が遺産の形態を越して現実に生かせていることに等しく、文明史における意義が極めて大きいと申しました。

すると、陛下は、新嘗祭のように伝統あるものはそのままの形を残していくことが大切とのお考えを示され,新しく考案された田植え行事は、形よりはそれをおこなう意義を重視してほしいと言われました。
 宮中養蚕についてはとくに話題が深まりました。美智子皇后さまは絶滅の危機に瀕している日本の野生種「小石丸」を飼育し、皇室養蚕所でつむいだ生糸を正倉院へ古典の補修などに提供されるそうです。養蚕について皇后さまの和歌を紹介いたしましょう。

真夜こめて秋蚕は繭をつくるらしただかすかなる音のきこゆる

音ややにかすかになりて繭の中のしじまは深く闇にまさらむ

籠る蚕のなほも光に焦がるるごと終の糸かけぬたたずまひあり

くろく熟れし桑の実われのてに置きて疎開の日日を君は語らす 

●写真 皇后さまにいただいた『皇后陛下御歌集 瀬音』(大東出版社 平成23630日第三刷発行)


パリの日本文化会館で2014年2月から2カ月間、「蚕-皇室のご養蚕と古代裂,日仏絹の交流」の記念展示会が開かれました。観覧者に配られたパンフレットに「三世紀ごろ、中国から日本に養蚕が渡った」とありました。皇后よりそのパンフレットの1枚を私にくださいました。

●写真 カタログ『蚕-皇室のご養蚕と古代裂,日仏絹の交流』


陛下は漢文の素養も並々ではありません。李白の「白帝城」など幼少の学習成果に触れられました。日中両国民の文化交流、青少年交流、教育交流が望ましい、交流には共有の漢字と漢文が必須になると見ておられ、教育者と研究者が活発に活動してほしいと述べられました。不幸な戦争を決して起こしてはならないという両陛下の希求が伝わってきました。

今回も2時間ほどお話が続きました。あっという間に予定の時間が過ぎました。こちらの車が見えなくなるまで見送ってくださったお姿が、わすれることができません。

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