私とバレエの女神――森下洋子

2020-08-28 13:47:23

尹建平=文・写真提供

 

若い頃の筆者(右から二人目)と森下洋子さん(左から二人目)

 

72歳という歳になっても、なお世界のバレエの舞台で活躍し続ける女性は、彼女をおいて他にはない、と私は思っている。それ一つだけでも、彼女は私の心の中の芸術的憧れであり、その上、私たちは友だちで、古くからの友人でもある。彼女は、中国の人々から熱愛、尊敬されるバレエの女神――日本の松山バレエ団の森下洋子さんだ。

私は筆を走らせるのは得意ではない。だが、松山バレエ団との長年にわたる熱い友情と、森下洋子さんの並々ならぬ芸術的魅力に突き動かされ、何か書かなくてはと日ごろから思っていた。しかし、書けば心の中の神聖なものを汚してしまうのではと恐くて、なかなか筆を執る気になれなかった。ところが、昨夜見た夢で、どうしても何か書かなければならないと、ついに決心した。その夢に出てきたのは、銀白色の衣装を着た日本の「白毛女」だった。

 

松山バレエ団の創立者の一人、松山樹子さんは1958年と64年、初代の「白毛女」役として2度訪中し、毛主席と周総理の接見と称賛を受けた。その後、毛主席の「延安文芸座談会での講話」発表28周年を記念し、松山バレエ団は719月、四たび訪中しバレエ劇「白毛女」を上演した。再び公演を観た周総理は、団員たちと会見し、当時「白毛女」の役を演じた役者にこう語った。

「『井戸掘り人』である初代の『白毛女』を私たちはいつまでも胸に刻み、尊敬し続けていくでしょう。そして、今日からまた新しい役者の名前が、同じように中国の人々の心に永遠に留まることとなるでしょう。それが2代目『白毛女』である森下洋子さん、あなたです」

 

松山バレエ団は、58年から今まで18回中国を訪れ、そのうち16回もバレエ劇『白毛女』全編もしく一部の公演を行った。

森下洋子さんは、71年から主役の「喜児」の役を踊り続けて49年。そんな洋子さんの最後の公演は2018年だった。70歳になった洋子さんが「喜児」の姿でまた中国の舞台に登場すると、観客席に座っていた私は深く心を打たれ、思わず涙があふれ出た。同時に、甘い思い出が脳裏によみがえった。

 

松山バレエ団のバレエ劇『白毛女』世界初公演60周年の2015年、同バレエ団総代表の清水哲太郎・森下洋子夫妻の招きにより、私は訪問団を率いて日本を訪問、この重要な記念行事に参加した。

その日、私たち一行は松山バレエ団に車を走らせた。車を降りたところからバレエ団へ行くには、細い道を少し歩き幾つかの角を曲がる。その角々で劇団員が満面の笑顔で出迎えてくれ、わずか数百メートルの道はサプライズの連続だった。そして劇団まで約数十メートルという小路に着いた時、私たちは目の前の光景に驚いた。その小路は人で埋め尽くされ、赤旗がはためいていた。バレエ団のスタッフはみな正装をして、中国の国旗を振り、輝く笑顔と熱烈な掛け声で私たちを歓迎してくれた。

「尹建平さん、こんにちは!」「ようこそ、いらっしゃい!」

歓声が高まり、中国の国旗がしきりに振られる。普段は人気のない静かな小に喜びの渦が巻き起こった。私たちは国賓のようなもてなしを受けた。これは私の生涯で最も盛大な歓迎式だった。そして、この盛大な歓迎式を整えてくれたのが森下洋子さんだった。

 

洋子さんと哲太郎さん夫妻は、バレエ団の玄関で出迎えてくれた。私は二人と抱き合ってあいさつを交わし、劇団の前で記念写真を撮影。歓声と笑い声に包まれる中、二人に導かれ私たちはバレエ団の門をくぐった。

 

すると、1階のフロアには展示パネルがあり、それまで私が松山バレエ団の方々と一緒に撮った数々の記念写真が飾られていた。洋子さんの行き届いた心遣いに私は胸がいっぱいになった。洋子さんは世界のバレエ界で名を知られる大スターだが、目の前にいる彼女はとても優しく謙虚で、近所のお姉さんのようだった。

 

洋子さんに手を引かれて2階の上演ホールに上がると、団員たちは赤い絹布と花を手に、「尹建平、尹建平、ようこそ、ようこそ!」と私の名前を叫び、誰もが真摯で情熱に満ちあふれる笑みを浮かべた。

突然、良く知る『春節序曲』が鳴り響き、洋子さんは赤い絹布を手に団員たちを率い、私たちのために踊り始めた。なじみのメロディーに合わせて洋子さんは、私が今回の記念活動のために作った二胡変奏曲『白毛女』をアレンジした踊りを披露。洋子さんは変わらず喜児を演じ、私たちはその軽やかで優雅な舞姿にうっとりとした。それは、とても70歳近くの人の踊りだとは思えないものだった

「敬愛する毛主席」の歌声が響き、洋子さん演じる喜児と男性主人公が地面に膝をつくと、私たち訪日団のメンバーも皆感動で涙をこぼした。その時の心情は、ヒロインの喜児が経験した苦難への同情というより、森下洋子さんの繊細で真摯、情熱的、献身的な芸術的魅力から受けた感動の方が強かった。

 

その後、もう一つ大きなサプライズが私を待っていた。バレエ団の訪問を終えた後、洋子さんと全団員たちは、ホテルを貸し切って私の60歳の誕生日を祝ってくれた。洋子さんと哲太郎さんは、「尹建平さん、私たち松山バレエ団は、あなたに大きな期待を寄せています。ぜひ松山バレエ団の海外理事を務めいただきたいのです。どうぞ私たちの招請をお受けください」と言った。私にとっては心踊る誘いだった。

私は感激し、「松山バレエ団に足を踏み入れた瞬間から私はずっと感動の連続でした。今日は、『白毛女』の60歳の誕生日で、皆さんは私の60歳の誕生日も覚えていて、こうして祝ってくれています。これは私たちがとても親しい友人である証しです。私は皆さんの一生の親友になりたいと思っています。この心からの贈り物、ぜひ受けさせてください!」と言った。そして、洋子さんからずっしりとした招請状を受け取り、祝杯を挙げ、こう話した。

「歴史は鏡です。私たちがどう考えるかに関係なく、そこにあり、過去を映しだしています。今日を生きる私たちにできることは一つしかありません。それは未来を切り開くことです。どんな未来を創るのか。もし友好の種をまけば、きっと友好の果実と平和な未来という実を結ぶでしょう。私は皆さんと一緒に、中日両国人民の世世代代にわたる友好のため、共に努力していきたいと願っています」

続いて、『赤いリボン』のメロディーが流れると、私はポケットに用意していた赤いリボンを出し、隣に座っていた洋子さんを誘って一緒に音楽に合わせて踊った。主客が心ゆくまで楽しんだひと時だった。

 

交響曲『黄河』の高揚したメロディーに合わせ、洋子さんは30人以上のダンサーを率いてバレエ『黄河』を披露した。そして、周恩来総理の有名な詩「雨の中の嵐山」を情感たっぷりに朗読した。キャンドルライトが揺れ大きなバースデーケーキが運ばれ、「Happy birthday dear 尹建平さん」の歌声に私は中日友好の願いを込めた。この時、洋子さんから、私の世代を超えた友人であり、松山バレエ団の創立者でもある清水正夫さんの形見をプレゼントにいただいた。

 

別れの時が来るのは早いもの。私は涙を浮かべ車の窓から洋子さんが手を振る姿をずっと眺めていた。立ち尽くす彼女はまるで美しい彫像のようだった。



洋子さんは、「白毛女」を演じるために、自らの全ての生活経験を引き出して「喜児」の悲惨な境遇と屈強な精神を感じ取り、自らを突き動かした思いと感情の全てを芸術の創作に注ぎ込んだ。彼女が演じる「喜児」はしなやかで、勇敢で、強くて、剛毅な光を放っている。

洋子さんは、生涯をバレエ芸術にささげた。バレエは残酷な芸術で、毎日苦しい稽古を重ね、汗や涙、時には血を流して成長していく。72歳の洋子さんは、生まれながらの素晴らしい芸術的な素質と日々のたゆまぬ努力により、世界のバレエ界で輝きを放った。この輝きは外見の美しさだけでなく、彼女の思想に宿る知性と豊かな感性を映し出している。

洋子さんは、舞台で踊るだけでなく、常日頃、自分と役柄を一体化させようと試みている。また、極めて純粋に自分の命とバレエを重ね合わせ、その豊かな想像力で登場人物の感情と思想を表現し、人間の最も崇高な精神世界を表現している。彼女が創る「白毛女は、血も肉も形も精神も備わっている。彼女の動き一つ一つは、力強い言葉のように人の心に訴えかける。彼女は、「喜児」の喜びや苦痛、絶望、恐怖、闘争を生き生きと表現している。彼女が白髪をなびかせる動作は力強く、誇張はしても形は変えない。観賞する人を感動させ、その心を揺さぶるものだった。

洋子さんは、音楽に対する並外れた感受性の持ち主でもある。彼女は「白毛女」の音楽を心で感じ取り、身体で表現する。バレエ劇「白毛女」の舞踏を完全に音楽と融合させ、変化に富んだリズムを的確に把握し、非常に繊細な変化に対しても機敏に身体を反応させる。音楽は彼女の踊りに魅力と人の心を揺さぶる力を与えた。これら全ては彼女のバレエ芸術に対する深い理解と、たゆまぬ探究によるものだ

 

21世紀でバレエの女神の化身は彼女以外にはなく、魂のダンサーという称号も彼女以外にはないと思っている。それが私の中の森下洋子であり、「白毛女」を生涯の事業と見なし、中日友好のために架け橋として日々努力する偉大な芸術の使者だ。

 

【作者プロフィール】

尹建平

ダンサーや作詞作曲家、音楽家、監督として多分野で活躍する著名な芸術家。1955年、山東省青島市出身。幼少時から音楽を好む。11歳から二胡を学び、著名な音楽家の何昌林氏に師事。1970年、人民解放軍総政治部歌舞団の試験に合格し入団。中国舞踏の大家・賈作光氏と劉英氏のもとで研さんを積む。現在、中国国際文化交流センター理事、中国国際文化交流基金会アートディレクターを兼務。また中国舞踏家協会の終身会員。 
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