周恩来と日本(2) 入学志望校と日本語教材

2021-09-18 09:49:33

王敏=文・写真提供

公費留学生を目指す

1917年秋、周恩来は来日し、日本で最初に中国人留学生を受け入れた公立の高等教育機関である東京高等師範学校(現・筑波大学)への入学を目指し、東亜高等予備学校に入り日本語を学んだ。この予備校を選んだのは、校長の松本亀次郎(1866~1945年)が東京高等師範の卒業生であるだけでなく、1908年から12年まで北京の京師法政学堂(後に北京大学に編入)で外国人教師(日本語)を務め、中国人からの信頼と評価が高かったからだ。松本は帰国後に私財と寄付により東亜高等予備学校を設立。35年間にわたり中国人留学生の教育に尽力した。

また松本はこれより前の03年、東京高等師範の学校長だった嘉納治五郎(1860~1938年)の薦めにより、清朝末期の中国人留学生の受け入れ先として知られた宏文学院で教授を務め、中国人留学生向けに18種類の日本語教材を執筆した。彼が編集した日本語教材を使ったことのある中国人留学生は数え切れず、魯迅や秋瑾、李大釗、周恩来なども名を連ねていた。

当時、日本留学ブームに沸いていた中国の主要都市でも、松本亀次郎の教材の代理販売が行われていた。その一つが、01年に天津・租界の旭街49号(現在の和平区和平路と鞍山道の交差点)に開設された日本の商社「加藤洋行」だ。加藤洋行は南開中学の近くにあり、日本への留学を決意した周恩来は、ここを訪れ関連する教材を読んだことだろう。

周恩来が東亜高等予備学校を選んだもう一つの理由は、同校の卒業生の多くが東京高等師範に進学していたからだ。東京高等師範は、日本で最初に設立された近代教育の担い手を育成する高等教育機関で、学費や生活費、服装費なども全て学校から提供されていたので、中国人留学生たちにとっては人気校だった。

当時、中国と日本の間にあった協定により、指定された日本の高等教育機関に合格した中国人留学生は、学業を終えて中国に帰国するまで公費留学生の待遇を受けることができた。これも周恩来がこの2校を狙った理由の一つでもある。

 

筆者が手にしているのは周恩来ら当時の中国人留学生の多くが使ったという日本語教材


1日13時間を超す猛勉強

   周恩来の日本での生活に関する資料で、最も正確で重要なのは、かつて南開大学に収蔵され、後に中国の中央文献研究室が編集した『周恩来早期文集』(98年2月発行)に収録されている日本滞在日記だ。この日記の日本語版『周恩来 十九歳の東京日記』も、9910月に小学館から出版されている。

   この日記では、「学習」がまさしく主役だ。これは、以下の統計データから見て取れる。18年1月4日から8月7日までの間だけで、日記で「東亜高等予備学校」について40回以上、「個人指導」は30回近く、さらに「東京高等師範学校」が15回、「勉強」も11回言及している。また3月11日の日記には、毎日学習13・5時間、休憩その他3・5時間、睡眠7時間というスケジュールが記されている。

   このようにして、周恩来は寝食を忘れて勉強に打ち込み、来る日も来る日も学校と宿舎の間を往復した。異国の受験生として、19歳の周恩来は大きな進学のプレッシャーを感じていた。

   日記には、ストレス解消のために日比谷公園を散歩したり、上野で花見をしたりした記録もある。浅草にも6回ほど映画を観に行き、早稲田大学の中国人留学生を何度も訪問し、書店で『新青年』など日本の雑誌や書籍を立ち読みした。また、たまに華僑が経営する中華料理屋「漢陽楼」(現・都内神田小川町)に行き、安くておいしい焼豆腐(トウフのうま煮)や清燉獅子頭(大きな肉団子の澄ましスープ蒸し)を注文しては古里の料理で食欲を満たした。周恩来は当時、二つの明確な短期目標を持っていた。それは、東京高等師範学校か第一高等学校(現・東京大学教養学部)の公費留学生試験に合格し、新しい知識を探究することだった。

 日本語教材と研修旅行

   周恩来の日本滞在中の学校の記録は、戦火で全て灰になってしまい、探すのは難しいが、当時彼が使っていた教材はおおよそ知ることができる。これらの教科書は、当時の日本語教育の第一人者であった松本亀次郎が主に編集・発行したもので、他の語学学校でも使用されていた。周恩来は留学中、主に以下の数種類(1〜3、6、7は松本亀次郎著)を使用したようだ。

1、『言文対照 漢訳日本文典』 中外図書局、04年。

2、『言文対照 漢訳日本文典』訂正第15版、国文堂書局、05年。

3、『漢訳師範科講義録 日本語編』 06年(内部発行)。

4、『日本語教科書』全3巻 宏文学院編さん(松本亀次郎が主な著者)金港堂書籍、06年。

5、『日語日文教科書』 宏文学院編さん(松本亀次郎口述)、07年。

6、『漢訳 日本語会話教科書』 東京光栄館書店、14年。

7、『漢訳 日本口語文法教科書』 笹川書店、19年。

   29年の統計データによると、04年に出版された『言文対照 漢訳日本文典』の改訂版は、出版以来35回重版された。14年に刊行された『漢訳日本語会話教科書』は、初版から20回以上も再版された。この他、日本語教育と日本の歴史・地理・文化を融合した『華訳日本語会話教典』は40年に有隣書屋から出版され、今でも学ぶ価値のある一書だ。

   これらの教材には、何度も登場する名所旧跡に嵐山、円山公園、琵琶湖疎水、南禅寺、大覚寺、天王寺、大悲閣千光寺、萬福寺などがあり、それと関連する有名人として角倉了以(京都の豪商)や隠元(中国の禅僧)、高泉(隠元に従って来日した黄檗宗の僧)らが挙げられている。この他、日本の年号や古代の天皇、伝説上の渡来人・王仁が皇太子に『論語』や『千字文』を教えたことなども紹介されている。

    外国語を学んだ経験のある人は、丸暗記するしかない単語と違い、文章を学ぶ際に文型や文法を覚えるだけではなく、その中に含まれる文化的な意味も吸収できると感じるだろう。周恩来がこれらの教材から学んだものが、やがて日本を理解するために行った調査旅行のよりどころにと変わったのは想像に難くない。しかも、これらの現地調査から得られた知見は、日本を分析する上での参考となり、中日関係を判断する際に考えを補ってくれただろう。

 

 

筆者は、教材の内容を実地調査で考証するために今年7月14日、周恩来の日本滞在時期の大正6年(1917年)9月5日に和楽路屋から発行された『実地踏測京都市街全図』を手に、京都府宇治市にある日本の三大禅宗の一宗派である黄檗宗の大本山・萬福寺を訪れた。同寺は中国・福建から渡来した禅僧・隠元により1661年に創建された。

萬福寺文華殿(宝物殿)の主管で黄檗文化研究所の田中智誠副所長の案内と説明を受け、周恩来が帰国直前の1919年4月に同寺を訪れた際のことを調査・考察した。詳しくは次号をご覧いただきたい。

王敏教授、周恩来を語る

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