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移民文化のシンボル--開平の望楼と村落

 

錦江里村に立ち並ぶ三つの望楼・瑞石楼(右)、錦江楼(中央)、昇峰楼(左) 池のほとりにそびえ立つ、開平市唯一の斜めに傾いた望楼

開平市は広東省の省都・広州市の西南約120キロに位置する。開平に入ると、自動車道路の両側の村々に、一般の住宅の中から突きだしたように高くそびえ立つ「碉楼」と呼ばれる望楼が断続的に並んでいるのが目にとまる。それが十棟以上にも及ぶ村もあれば、わずか2、3棟しかない村もある。専門家の統計によれば、最盛期には3000棟以上の望楼がこの開平にあったといわれるが、現存するのは1833棟のみである。

 

 華僑との密接な関係

 

三門里村の煉瓦と木材構造の「迎竜楼」。明の嘉靖年間(1522~1566年)に建てられた、現存するもっとも古い望楼であり、開平市の望楼の初期の建築形式を代表する。

百合鎮河帯村に位置する、煉瓦と鉄筋コンクリート構造の「雁平楼」

望楼の起源は明代(1368~1644年)後期といわれる。当時の開平市は新会県、台山県、恩平県及び新興県が相接する場所であったが、水利工事の修理を怠り、社会秩序が乱れていたため、村民たちは洪水と土匪の被害に悩まされていた。不測の事態に備え、また防衛のために、村民たちは続々と洪水及び土匪対策の望楼を建て始めた。

 

開平市は、「中国第一の華僑の故郷」と呼ばれている。1659平方キロあまりの面積に人口68万あまりだが、海外に居住する開平出身の華僑が75万人にのぼるためである。多くの開平人がアメリカ、カナダ、オーストラリアなどの先進国に居留している。かつて海外で生計を立てていた華僑たちは、1882年に公布されたアメリカの人種差別に基づく法律――「中国人排斥法」の制限を受け、いくら金を稼ごうと米国社会に溶け込むのは不可能であったことから、子孫繁栄の願いを故郷に託した。

 

山の斜面など小高いところによく見られる村の見張り――灯楼 赤坎鎮の民家。3キロにわたって連綿と続く、壮観なポルトガル風のアーケード
 

華僑たちが帰郷に際して重視したことは三つあった。家を建てること、土地を買うこと、そして妻を娶ることである。当時、土匪の勢力が盛んな土地で、頻繁に水害に襲われるため、家を建てる時には、高く丈夫な防御機能を備えた構造の望楼を選んだ。海外から持ち帰った建築の設計図、写真及び材料を用いることが多かったため、多くの望楼がヨーロッパの古典建築スタイルとなった。ローマ式アーチ、ゴシック建築尖塔アーチ、古代ギリシアの柱廊、バロック調の三角形の切妻壁、ポルトガル建築のバルコニー、さらにイスラム風の鉄彫まで、各国の建築芸術スタイルの風格がうかがえる。これらの建築工事を引き受けたのは、すべて地元の建築技術者たちである。そのため、望楼には少なからず中国式建築の特徴も入り混じり、開平の望楼は異なる時代、異なる流派、異なる民族、異なる宗教の建築の「かけら」が組み合わされた形の不思議な建築物となり、中国農民による西洋文化の再現とも言えるものとなった。

 

望楼は「生きた近代建築博物館」「心揺さぶられる建築芸術の長廊」として専門家の注目も高い。「開平望楼は中国、ひいては世界で唯一無二の建築である」と権威ある建築学者たちの意見は一致している。開平望楼には多元的な文化が集中し、その融合が体現されている。

 

さまざまな建築法と防御機能

 

開平の望楼が栄えた時期を代表する自力村の望楼群

竹林の中に隠れるような馬降竜村の望楼群

開平望楼は、使用されている建築材料もさまざまで、80%がコンクリート、約14%がレンガ、5.5%が版築(土を突き固めてつくる土壁の建築法)構造であり、主に低い山や丘陵地帯に分布する石が0.5%となっている。

 

機能面から分類すると、衆楼、居楼、更楼の三つに分けられる。衆楼は全村あるいは数軒の家が金を出して共同で建てたもので、緊急避難用に各家に一つ部屋が与えられる。居楼は豊かな家々が独自で建てたもので、生活及び防御機能をもつ。階層が高く、部屋が広く、生活に必要な施設が完備されているほか、外観の装飾も美しく、ほとんどが村のシンボルと見なされている。開平にはこの居楼に分類される望楼が多く、1149棟が現存している。更楼はまた灯楼とも呼ばれる。主に村の外の丘の上や川岸に建てられ、サーチライトや警報器が備え付けられ、土匪を見つけやすく、警備の役割を持つ。

 

 

「瑞石楼」の玄関に彫り込まれた鉄禅大師の手跡である対聯

土匪を防御する「燕の巣」

開平市から東北35キロ離れたところに錦江里という村がある。この村には10本の狭い路地で結ばれたような、青い煉瓦の壁と斜め屋根の民家が整然と並んでいる。村の背後には3棟の望楼がそびえている。西から順番に、アメリカ華僑の黄氏が建てた7階建ての「昇峰楼」、村民が共同で建てた5階建ての衆楼・錦江楼、そして最東端が瑞石楼である。

 

9階建ての「瑞石楼」は高さ29.8メートル。玄関の前には空に向かって高くそびえ立つ2本のナツメヤシの木が植えられている。この家の主人である黄耀驥さんによれば、この望楼はアメリカと香港で商売をしていた彼の曾祖父・黄璧秀さんが帰郷した1923年ごろに建てたもので、楼名は曾祖父の{あざな}字にちなんだものだという。九階建てにしたのは、友人である広州六榕寺の住職・鉄禅大師の提案で、中国で「無限」を象徴する数字の九にこだわったためである。玄関には鉄禅大師の手書きの対聯が彫刻されている。「瑞日祥雲弥宇宙 石麟金鳳到門庭(めでたい陽光と雲が宇宙に満ちあふれ、石の麒麟と金の鳳凰が家に来る)」という対聯の頭文字が「瑞石」の二文字となっている。

 

自力村の銘石楼の一階の広間

自力村の銘石楼の居室

瑞石楼は開平市でもっとも高く、建築物としての芸術的価値の最も高い望楼であり、「開平第一望楼」と呼ばれている。その濃厚な西洋建築の特徴として、5階の屋根の部分のローマ式アーチと風変わりな四角の柱、6階の古代ギリシア風列柱とアーチから構成された柱廊、7階の南北両側のバロック調の三角形の切妻壁、8階の西洋風塔式あずまや、9階のローマ式のあずまやの円頂がある。

 

瑞石楼に入ると、中の装飾もしつらえられた家具もほぼ昔のままに保存されている。入り口に貼られた対聯、室内の屏風、堅木で造られた中国スタイルのテーブルと椅子、彫刻の施されたベッド……いずれも中国伝統文化の濃厚な息づかいを感じることができる。この望楼で48年間生活しているという黄耀驥さんによれば、かつては一階が母屋で、黄さんの家族は2階から6階でそれぞれ生活していたという。7階には先祖の仏壇が安置され、8階は夜警用の部屋として、不測の事態に備えて銃器、弾薬、発電機などが置かれた。最上階の9階は展望台で、サーチライトと鐘が備え付けられている。

 

建築構造から見れば、「瑞石楼」はきわめて強力な防御機能を備えている。2階の正面の壁には二つの銃眼があり、ここから入り口を警備できる。6、7、8階の回廊の壁の角は「燕の巣」と呼ばれる突出した円形の設計で、射撃の際の掩体の役割もある。すべての「燕の巣」にある銃眼は下向きに射撃可能となっている。開平の多くの望楼にこの「燕の巣」が見られ、こうした設備によって、望楼に住む村民たちの安全は保障されてきた。

 

 女人禁制の望楼

 

密集する馬降竜村の民家。ごくわずかな距離しか離れていないが、地元の村民たちはすっかり慣れっこである やわらかくて美味しい三門里の特産品・三門里迎竜豆腐

馬降竜村落群は5つの村から構成されている。細長く分布する村落は、百足山を背に潭江に臨み、七棟の望楼、八棟の古邸宅、そして村落の民家が生い茂る竹林と果樹園の中に覆い隠されている。東西の風格を兼ね備えた、山紫水明の村落文化の景観を呈している。この開平でもっとも美しい望楼の村落群で生活している村民たちは、庭園内で暮らしているかのようである。

 

馬降竜村には、きわめて特殊な望楼といわれる7階建ての「衆楼」・「天禄楼」がある。かつて、村から東に数キロ離れた山の中に土匪のアジトがあった。中国の伝統的な観念において、家を継ぐのは男子であると考えられていた。そのため、土匪は常に村の男たちを拉致し、高額の身代金を脅し取った。そこで、村民たちは金を集めて「天禄楼」を建て、1階から5階までの29の部屋が、金を出した家々に一部屋ずつ分け与えられた。毎日夕食の後、男たちは「天禄楼」に上がって寝泊まりした。ここに女性が出入りして寝泊まりすることは禁止された。当時の開平の望楼の中では、他に例を見ない特殊な規則であった。

 

開平市の望楼一つ一つに、それぞれの物語がある。1833棟の望楼は、開平の歴史文化を紹介する1833枚の顔なのである。(文・写真=劉世昭)

 

「碉楼(望楼)」の最大の価値は、この100年~200年における中国と対外文化との交流を代表し、そうした歴史的な条件のもとに創り出された、非常に独特な、生活環境と居住スタイルにある――中国文物学会会長・羅哲文

 

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