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遼・金王朝 千年の時をこえて 第21回

 

 宋王朝が中国の南部で栄えていた頃、中国北方はモンゴル系の契丹人によって建てられた遼(907〜1125年)と東北部から興ったツングース系女真族の金(1115〜1234年)の支配するところとなっていた。これら両王朝の時代に、北京は初めて国都となったのである。

 

北京近郊の金遺跡群を訪ねる

北京近郊には現在も金王朝の遺跡が数多く残っている。これらの遺跡は北京の北方ないしは西方の山中に多く見られるが、今日まで生き残り続けてこられたのは、その所在が首都から離れていたためとも考えられる。場所の選択は多分、風水から観た山の姿とか、泉水が湧き出ているとかが主な理由で、遼時代の聖地であったところも多い。私は探索の際、女真族統治について書き記した碑文を見付け、また地元の人々が金王朝の歴史について語るのを聞く度に、驚きを禁じ得なかった。最初に調査した時の印象が非常に重要であると思うのは、その後、恐ろしく辺鄙な場所でさえも、全く様変わりし、元々の雰囲気が失われているからだ。とは言え、北京周辺の仏教聖地から発見されたさまざまな遺物は金王朝の首府、中都の高い文化に新たな光を投げかけている。

銀山塔林の5つの塔。昌平区

昌平区の銀山は一目見れば、仏教寺院建立の場所として選ばれた理由が理解できる。山中の巨大な岩石や洞穴は異様な光景を呈している。

尖塔のような峰々と暗い断崖の裂け目が銀山に「鉄壁」という異名をもたらした。北京の真北に位置するこの銀山は首都の風水からも最適な場所といえる。1980年代に、私が初めてここを訪れた時は、山すそに開けた平地に建つ一群の塔の周囲は一面の畑であった。この一帯にはかつて72の寺院があったと伝えられるが、現在でも残っているのは、この「塔林」だけである。当時最も格式の高かった大延聖寺(別名法華寺)は金代1125年に建立され、500人以上の僧侶がいたという。5基の密檐式金代仏塔は、歴代住職たちの納骨堂であり、そのうち三つは八角塔、他の二つは六角形で、壁面には繊細な浮彫が施され、檐の先端には神話上の人物が彫刻されている。私の最初の訪問から数年の間に考古学者たちは徐々に地下から歴史を一頁ずつ掘り出してくれた。12世紀の基石群から寺院の堂宇の配置が明らかになり、その結果、この一群の塔は寺の境内の中に建てられていたことが判って来た。これらの荘厳な「塔林」は過去の高僧たちに対する敬意と金時代における寺院の権威を如実に反映している。

北京の西、門頭溝区の山奥深く、白瀑寺という900年前に建てられた寺がある。間違いなくこれは首都から最も遠くに位置する仏教寺院である。1998年夏、私の最初の挑戦はまず、そこへ至る径を探すことから始まった。やっとのことで何の変哲もない田舎道が、古代の石敷きの巡礼道へ続いているのを発見した。過去何百年もの間に巡礼の足跡ですりへった石畳は歴史そのものといった印象を与える。40分程歩いたところで、遠方に古い塔の姿を見た時の興奮は今だに忘れがたい。塔は1146年、開山の祖、円正法師の遺骨を納めるために建てられたもので、塔の壁面の碑文は、華厳宗の布教に努めたこの僧の業績を詳細に記している。

姓は曹といい、托鉢僧として山中にその後自ら建立することになる多くの仏殿の資金を集めたとの記述がある。これだけの寺院建設の材料をどうやって古道を通って運んだのかはまさに想像を絶する。円正法師は白瀑寺を完成した後、67歳でこの世を去った。寺の境内の中に残っていたのは、この塔だけであった。塔の中部は三層密櫓を持つ六面体であるが、頭部は鉢を覆せた形をしている。これは正しく金時代の塔建築の最高傑作である。2004年から大規模な寺院の再建が始まったが、この塔は開山の祖を讃えるためだけでなく、白瀑寺の歴史の証人として威容を留めている。

豊台区雲崗村の小高い丘の上に18メートルの鎮崗塔がある。この地の伝説では、丘の土中に龍が住みついているそうだ。塔は龍を地中に閉じ込める重要な役割を担っているという。この塔を建てた人々はさまざまな意匠を凝らした痕跡が伺われる。頭部は珍しい花塔の形式であるが、塔壁一面に浮彫があり、表面を飾る仏像を収めた7列の小さな仏龕が特徴的である。私は1996年にこの塔を撮影したが、その頃は辺り一面が農地であった。今は塔の周囲は整理され、鉄柵が作られている。きっと毒龍の目を覚まさせないようにとの配慮であろう。

白瀑寺の円正法師塔。門頭溝区

厳行大徳霊塔。房山区

鎮崗塔。豊台区

白水寺の梁のない石堂は、房山区にある燕山石化工場の後方の山中に見出すことができる。この石堂には北京最大の高さ5.8メートルもある眼を見開いた金代の釈迦像があり、その両傍には二人の弟子の石像が立っている。15年前にここを訪ねた時、石化工場を退職した老人達がお詣りに来て香を焚き、くつろいでいた。供物の花はペットボトルに差し込まれ、仏前に置かれていた。この寺の名は大興隆寺であったが、地元では大佛寺と呼ばれている。

外部からは仏殿は長方形に見えるが、中に入ると天井はドーム型で、煉瓦が螺旋状に上部まで積み上がっていた。堂内にたたずんでいた時、突然高い窓から光が差し込み、釈尊の手に光輪を作った。こんな現象が毎日起こるのだろうか。昔の工匠達は仏像の神秘性を高めるためにこんな工夫をしたのであろうか。螺旋状天井、そして仏陀の手を照らす光は寺の歴史の手懸りとして、神秘な雰囲気を漂わせていた。

厳行大徳霊塔は上質の大理石を使った六角柱で慧聚寺の金代の高僧、厳行大徳を祀っている。1996年、この塔を探しに行った時は房山区の西甘池村辺りで、丈高い雑草と灌木をかき分けながら進んだのだが、苦労の末に、この優雅な姿の良い塔を遠望した感激は今も忘れられない。わずか5メートル程の高さで、中央部には経文が刻まれており、また基礎部分はサンスクリット文字で飾られていた。頭部は7層の檐があり、それには蓮の花が彫刻されている。碑文によると、塔は悟閑大師をも祀っており、金朝の名宰相として知られる張通古が寄進したものと言われている。このような塔は大きさや形からいって、一般には経幢と呼ばれている。12世紀ごろに建てられた同様の石柱は名刹潭柘寺や上方山中にもいくつかあり、高僧たちの遺骨を納めている。

煉瓦や石で造った金代の遺物は人間の苦心、努力の温かさを今に伝えている。聖地を守り、そして一つの目印としての役目も果たしている。これら遺跡は全体として仏塔建設や石刻文様の多様性を体現し、女真族支配の伝承として、現地の風景に光彩を添えている。

 

人民中国インターネット版 2010年11月

 

 

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