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貴州省黔東南ミャオ族トン族自治州 女性を飾り護る銀細工

 

銀飾りの図案に見る文化

牛角の頭飾りがミャオ族の娘を端正で美しく見せる

ミャオ族の銀飾りには、巫術と信仰の図案が主だ。ミャオ族の古歌によれば、古い楓の木から蝶のお母さんが生まれ、蝶のお母さんと水の泡が恋愛し、12の卵を産み、鵲に育てさせた。12年後、人類の始祖・姜央と雷公、龍、虎、蛇、象、牛など12の兄弟が生まれた。銀飾りの吊り花、三角形の楓の葉紋、各種の図案はよくこれとつながっている。銀の燕雀は銀飾りによく現われるが、連想させるのは蝶のお母さんを助けて12の卵を孵化させた鵲だ。蝶の紋様は、ほぼどんな銀飾りにも見られるが、それは蝶のお母さんは伝説中のミャオ族の母親だからだ。

西江、施洞などの地のミャオ族の銀角の頭飾りは牛角の造型だ。牛はミャオ族がもっとも崇拝している対象の一つで、古歌では水牛は人の祖・姜央の兄弟で、『史記』に載っているミャオ族の祖先・蚩尤は牛首人身だ。ミャオ族の生活の中で水牛は稲作農耕の主力であり、祖先を祭る生け贄でもある。ミャオ族は水牛には神が宿っており、時には牛を「牛母牛父」と称することさえある。「牛王祭」の時は牛に酒や肉、もち米のご飯を食べさせる。新しい銀角を作ってもらうと、工銭を払う他、もち米のご飯を送ってわが家に吉祥物を作ってくれた銀匠にお礼をする。

ミャオ族の銀飾りの中にたくさんの龍鳳の形がある。シンボル的な西江の銀角には「二龍戯珠(2匹の龍が玉と戯れる)」など典型的な漢族の龍鳳の形があり、明らかに民族が互いに影響し合った結果だ。ミャオ族も同様に龍を崇拝し、各地に龍に関連する活動、例えば雨乞いの接龍や龍船競漕などがあり、ミャオ族と中原文化との淵源関係を反映している。その実、ミャオ族の龍は自分の系譜があり、龍に対しても違った見方がある。ミャオ龍と漢龍は形も違う。たとえば牛龍、ムカデ龍、魚龍など、刺繍の図案の中にも種類が非常に多い。ミャオ龍は12兄弟の中の一つだ。漢龍のような至高無上の地位はなく、稲作農耕民族の生活や生産と密接に関係する保護神に過ぎない。

ミャオ族の人々に言わせると、一つの飾りがつまり一つの吉祥物で、どの図案もミャオ族の深い文化情報を伝え、人々のよい生活への憧れを寄託する。吉祥を表すものであれば鳥獣蝶龍であれ花草魚虫であれ、すべて造型と図案の中に取り込んでいく。

多さ・重さ・大きさが美の基準

古代の漢族は銀飾りを着ける上で、等級による厳しい規制があった。だがミャオ族では銀飾りを着けるのは服飾と同じで、寨老(少数民族の村で、村民から民主的に推挙された長老)、土司、鼓蔵頭(ミャオ族鼓社組織の指導者)、あるいは普通の庶民だろうと、同じ部族であればみな同じ銀飾りを着けている。例えば、西江のミャオ族の女性は嫁に行く時、「銀角」をかぶらなければいけないが、もし家になければ、親類や友だちから借りてもよい。みんな喜んで貸してくれる。

銀飾りをただの装身具とする漢族と違い、ミャオ族では祝日や結婚など人生の大切な日に、持っているすべての銀飾りを身に着ける。銀飾りの多さ、重さ、そして大きさが美の基準とされている。3つ、4つもの耳輪に、3、4個の首輪を着け、銀飾りで首が見えない人をよく見かける。ミャオ族は長年遷移し、一カ所に定まらない漂泊生活を送っていたため、家中の全ての財産を銀と交換し、それを溶炉に入れて糸に鍛造し、花を編み装飾品とするようになった。したがって、銀飾りの量が財産の多少を表す象徴であり、「お金を飾りとする」、つまりミャオ族の女性が美を競うことは、富を競うことをも意味する。

ミャオ族のことわざに「銀飾りも花もなければ、女の子とはいえない」と言う。一般の家庭では娘が幼いころから彼女のために毎年銀飾りを作り、年々積み重ねて銀飾りを専門の木製の箱に大切に保存する。芦笙祭では、一番重く、大きく、多い銀飾りをもつ女の子がもっとも美しい女性と見なされ、その娘が祭りの会場で男の子たちに追いかけられる。ミャオ族の家庭では、男の子が父親から家屋と土地を相続し、女の子は銀飾りの嫁入り道具を受け取る。その中の銀飾りには、母親から娘にと、代々伝わるものもある。私が聞いたところによれば、嫁入り道具の銀飾りの一式の値打ちは、数万元から十数万元であるという。それは富というだけではなく、両親の娘に対する愛情をも表している。

「銀匠村」の溶炉の火

服飾を見ればすぐ年齢や結婚の状況が分かる

にぎやかな西江鎮の街には、ミャオ族の刺繍や銀飾りを営む店舗と露店があちこちにある。私たちはとある店に入った。主人は穆村というミャオ族の娘さんで、今年22歳。彼女は情熱的で親切な上、英語が話せるのでよく外国人のお客がやってくる。彼女は明日はミャオ族の「鼓蔵節」の最初の日なので、店を閉め、20キロ離れた家へ戻って年を越すとわれわれに教えてくれた。彼女の実家は代々の銀職人の家で、家族は「銀匠村」といわれる控拝村に住んでいる。

控拝村は典型的なミャオ族の集落で、干欄式の吊脚楼が山に依って建てられている。その周りは幾重もの棚田と山林だ。217戸、952人の村民がおり、銀製品の製造を生業にしている家が80%を占め、すでに400年以上の歴史がある。昔は家を作業場にし、銀製品の委託加工を引き受ける場合がほとんどで、農繁期には溶炉を消し、農閑期に製造を再開する。あるいは、農閑期に外に出て、商売を一手に引き受ける。ところが何人かの銀職人を訪ねてみたが、イメージを描いていた熱気に満ちあふれた銀製品を作る場面は見えなかった。実は、観光業の発展に伴い、銀職人たちは富を求めて次々と村を出てしまった。現在の控拝村には、百ちょっとの戸数、300人を超える村民たちが広西、湖南、雲南、北京及び貴州などで銀飾りの製造と販売の仕事をしている。やはり、「鼓蔵節」の期間には、村で多くの銀職人を見かけた。年越しのために外地から戻ってきたのだ。

穆村さんの父親は1966年生まれ、小学校を卒業すると自分の父親に従い銀職人になった。20歳から彼は外地を巡って銀を打った。ここ数年、彼はもう一つのミャオ族文化の観光地である榕江県肇慶で銀飾りの製造・販売の店を経営している。その後、彼はまた「農家楽」という観光客向けの旅館を開いた。奥さんも彼といっしょに銀作りや刺繍をしている。長女の穆村さんは西江鎮で銀飾りの店を営み、二人の息子は異郷の専門学校に通っている。「鼓蔵節」のおかげで、家族全員が故郷へ戻り、ありがたい一家団欒のチャンスを得た。ほとんどの村民は今はもう家を作業場にはせず、溶炉も消したが、銀製品作りの技はさらに広い市場に向けて歩み、ミャオ族の銀飾りはもっと遠くへ伝わっている。

ミャオ族の銀飾り作り

銀職人が「鼓蔵節」を迎えに帰省したため、雷山県城の立派な「銀飾り通り」にある数十軒の銀飾り屋は店を閉めていた。私は一本の清潔な街道でやっと、一軒の店舗を見つけた。穆你応という店の主は、左目と右足が不自由な銀職人である。

30代の穆さんもやはり、控拝村出身で、家族で銀を打つ11代目の銀職人である。彼は中学校時代から休みのたびに父親に従って銀製品作りを学んだ。不幸にも16歳の時、高温の溶解した銀がはねて左目に入り不自由になった。災いは重なるもので、20歳のあの年、銀製品を作るため重荷を担ぎながら村々を回っていた時、視力が悪いこともあって、でこぼこした山道で、不注意にも山下に転げ落ち、右足も不自由になった。しかし、不自由になった体でも穆さんは銀製品作りを投げ出さなかった。1998年、穆さん夫妻は雷山県にやって来て部屋を借りて、銀飾りの工房を開いた。40平方メートル以上の店先のほか、380平方メートルの加工場もある。巧みな技と人づき合いのよさで、彼の工房に20人以上の職人をもち、民族風の銀飾りと観光記念向けの銀製品の2種類を生産し、アメリカや日本、台湾などの国や地区にまで輸出している。穆さんにとってもっとも自慢なのは、ここ数年、雷山県に開かれた銀飾り博物館がとくに彼に依頼して、74キロの銀を使って、展示品の銀飾り104件を複製・製造したことだ。これらの展示品の中には、彼が長年にわたって収集した銀飾りの工芸品や、博物館から提供された写真に基づいて彼が作った精緻な作品もある。

一つの銀飾りは普通約10から20のプロセスを経てやっと完成する。穆さんの紹介によると、銀飾りの造形は銀職人に相当優れた技術がなくてはならない。うまく作るのは容易ではないが、デザイン面での新しい発想も欠かせない。それぞれの系譜の民族にはそれぞれの伝統や習慣、審美感があるため、作品の細部あるいは局部を精細に彫刻しなければならない。一般的に全体の造型を勝手に変えることはできない。それぞれの系譜の民族のシンポルでもあるからだ。

 

人民中国インターネット版 2011年5月

 

 

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