日中友好
ジャスロン代表 笈川幸司
2012年1月22日午前5時、北九州で男児が誕生した。
日本では辰年生まれだが、中国では除夕(大晦日)に生まれたから兎年となる。「望子成龍」という言葉があり、中国では辰年は非常に人気があるので少々残念だったが、元気に生まれてきてくれただけで御の字だ。
それから、こんな面白い話を聞いた。中国のある地方では、大晦日に生まれた瞬間に一歳、春節を迎えた瞬間に二歳になるそうだ。うちの子は、生まれて二日で二歳になったことになる。
名前は友志(ゆうじ)。妻とは、もし女の子が生まれたら、日中友好の意味で「友華(ゆうか)」にしようと決めていたが、男児が生まれたので急遽変更した。

生まれた日に新浪微博でつぶやいた途端、多くの学生たちからお祝いのコメントをいただいた。また、生まれてくる前から、清華大学の先生方をはじめ、多くの方々から、お使い、差し入れ、病院探し等々、本当に助けていただいた。
身重だった妻が去年10月末に瀋陽に来てくれたときには、瀋陽、遼陽の講演会場で、いづれ生まれてくる子を励まそうと、大勢の学生たちから割れんばかりの拍手をいただいた。友志は、そういう星の下で生まれた子どもなのかもしれない。妻は「3人で日中友好のために命を捧げよう」と言っている。
さて、今日は日中友好の話をしていこうと思う。
わたしが日中友好という言葉を口にし始めたのは、梅木信秋さんに出会ってからだ。建設会社を経営していた梅木さんは、30年以上中国から研修生を受け入れていた。「いま、本当の財産と呼べるものは中国で活躍している中国の子どもたちだ」とおっしゃる。
そんな梅木さんの影響を受け、わたしは1994年12月に初めて中国の大地に降り立った。大学時代の友人からは、「なぜ、中国?」と笑われた。いま彼らは「いやあ、お前の先見の明は大したものだ」とため息をつく。いや、なんてことはない。当時のわたしも彼らと同じ考えだった。
一年半、北京で留学をしながら「日中友好、日中友好」と叫び続けた。当時、相当な力不足で何の足しにもならなかったが、梅木さんの役に立ちたい一心で叫んだ。
いま振り返ってみると、当時は何の実績も残せなかったし、人脈が築けたわけでもない。しかし、それらのものよりも、そのときに周りにいた中国の方々に親切にしていただいた記憶、そして中国を愛する気持ちが芽生えたことが、今のわたしにとってはより大事で、この上ない財産になっている。
あれから17年。日本語教師になり、「日本の雷鋒さん」と呼ばれるようになって久しいが、ここ10年は無我夢中で走ってきた。しかし、その間に同じ夢を描く人と出会い、高い志を抱く人に出会えた。いま、こう思う。「あれこれ計算しながら前に進むよりも、ひたすら突っ走っていたほうが、会いたい人に出会えるな」と。
去年7月、中国に恋し、中国を愛する気持ちは誰にも負けないという妻に、「日中友好のために二人で力を合わせて生きて行こう」と言われ、41歳にして結婚に至った。プロポーズはわたしの方からしたが、彼女の返しのほうがプロポーズらしかった。彼女の感覚では、「日中友好」という言葉を堂々と言う人はあまりいないそうだ。わたしのそこが良かったらしい。また、「日本の雷鋒さん」にも好印象を抱いてくれた。

ところが、それがきっかけで、その後こっ酷く叱られることになる。
北京のマンション事情。
10年前と比べると価格が随分上昇した。「10年前にマンションを購入していたら、今頃、マンション購入のことで悩むことはなかったのに…」。これは世間でよく出る話題。わたしもその流れでこんなことを口走ってしまった。「まったく、10年前にマンションを5,6購入していたら、今頃一生楽して暮らせるたのに…」と。
すると、妻が激怒した。「あなたは中国全土へ行って、大勢の人の前で自分のことを「日本の雷鋒さんです」って言っているわよね。よくもそんなことが言えたわね。お金は汗を流して稼ぐものでしょう?何もしないで儲けたお金のどこに価値があるの?わたしはね、あなたが日中友好のために、文句ひとつ言わずに地味な仕事をひとつひとつやるのを見てきたの。もう二度とそんな馬鹿な話をしないで!わかった?」
確かに、彼女の言う通りだ。「地味な仕事」と書いたが、仕事に派手も地味もない。ひとつひとつ誠意を持ってやること。これまでもそうだったし、これからもそうやっていく、ただそれだけだ。少し持て囃されるようになったから近づいてくる人も出てきたが、そういう人とは話をし始めた瞬間に根本のところがわかる。軽いのは良いが、軽すぎるのだ。日中友好を行動に移すなら、軽すぎたら駄目だ。もちろん、それは容易なことではないが、やり続けなければならない。
そういうわたしたち二人の期待を背負って生きていく幼い息子を思うと少々気の毒だが、こんな父の考えを「お父さんはまだまだ軽すぎる」と思い、それを言える人になってもらえたらこれ以上うれしいことはない。
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笈川幸司 |
1970年埼玉県所沢市生まれ。元衆議院議員公設秘書。元漫才師。 2001年に北京に来て、10年間清華大学、北京大学で教鞭を取る。10年間、中国人学生のため、朝6時に学生とのジョギングから始まり、夜中までスピーチ指導を無償で行い、自ら日本語コンテストを開催、中国全土の日本語学習者に学ぶ機会を提供している。また、社会貢献をすることで、日本大使館、日本国際交流基金、マスコミ各社、企業、日本語界から高い評価を得ている。2011年8月から2012年7月までの一年間、中国540大学で11万人の日本語学習者を相手に「日本語の発音、スピーチの秘訣」についての講演を実施する予定。「ジャスロン日语学习沙龙」のホームページ:http://neo-acg.org/supesite/ |
人民中国インターネット版 2012年1月20日