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古の姿がよみがえる 永定門

 

 中軸線の起点となる永定門は、500年の長きにわたって北京城を守ってきた。しかし新中国成立後の1957年、都市交通の発展の妨げになるとみなされて取り壊された。その後、永定門を再建し中軸線を維持しようという声は絶えず、ついに2004年、永定門はよみがえった。



 

紆余曲折を経て

 

永定門の「御道」は、もともと使われていた石を利用して昔の姿を再現した
再建された永定門の下に立つと、灰色の城壁と赤色の城楼(城門の上に築かれたやぐら)が目にまぶしい。新しい永定門は、形、材料、作り方すべてが、昔の永定門とまったく変わらない。城楼に登って北の方を眺めると、正陽門がかすかに見える。永定門の北側には大きな広場と緑地が広がり、市民の憩いの場となっている。

 

永定門はかつて、外城の南城壁の中央にあり、7つある外城の城門のうち、もっとも威厳ある重要な建築物だった。

 

1953年、成立して間もない新中国は、これまで棚上げにされてきた事業に手を付け始めた。専門家たちは北京をどのように発展させるかについて、さまざまな策を提言した。

 

清華大学建築学部の梁思成教授と陳占祥教授は、古都である北京はその姿を留めるべきだと主張し、旧城の西側に新しい街を建設し、住民をそちらに移してはどうかと提案した。別の一派は、北京は、旧城のもとからある施設を基本とし、それに手を加えて発展させていくべきだと主張した。

 

これに対して施政者たちは、当時の経済的条件の制約と旧ソ連の専門家たちが主張した「都市発展は一つの中心による」「消費型都市から生産型都市への転換」などの指導思想により、最終的には後者を選んだ。

 

ここから、北京は大規模な都市改造を開始。当時、城壁は都市交通の発展を妨げる大きな障害であるとみなされ、取り壊されることになった。1950年代初頭から城壁と城楼は次々と取り壊され、1957年には、永定門が壊された。永定門の前にあった堀は北に移され、そこには広い道路が建設された。こうして、永定門は城壁も城楼もなくなり、地名として残るのみとなった。

 

改革・開放により経済が急速に発展したため、1980年代以降、一部の専門家は永定門の再建を叫び始めた。彼らは、旧城の中軸線は都市の魂であると考えたのだ。永定門がなければ、中軸線は南の起点を欠き、完全なものにはならない。

 

 昔の写真に見る永定門  再建された永定門の城楼
2001年、北京はオリンピック招致を成功させ、都市建設のスピードを速めた。「人文五輪」の理念のもと、旧城の風貌をよみがえらせるために、2002年から中軸線の南部の整備を始めた。そこには、永定門の再建も含まれていた。

 

2003年、新しい永定門の建設が始まり、一年余り後、竣工して一般開放された。

 

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