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新中国初のパイロットを育てた 日本人教官たちの「里帰り」

 

父や母の墓に詣でる

 

代表団の一行は、長春から汽車で牡丹江へ向かった。列車が牡丹江に近い東京城駅を通過したとき、副団長の入角和男さんの胸中は複雑な思いでいっぱいになった。

 

日本の「老戦士」の「里帰り代表団」は長春に到着し、航空大学の先生と学生たちから盛大な歓迎を受けた


 

日本が降伏したとき、入角さんと上の姉の敏子さん、下の姉の智恵さんの生活はきわめて苦しかった。誰も助けてくれず困っていたとき、東京城で収容されたのだった。後に3人は牡丹江の航空学校へ送られた。そのとき入角さんは13歳だった。

 

彼は学校の雑役係になり、二人の姉は学校の保母になった。しかし敏子さんは牡丹江で病気のため死んでしまった。このときのことを思い起こして入角さんは「中国人が私たちを助けてくれた。それを終生忘れない」と言った。智恵さんは結婚し、今は中川姓となっているが、今回の旅行に参加した。

 

団員として参加した山本真代さんは、航空学校で主任飛行教官をしていた今は亡き糸川正弘さんの娘である。父がかつて仕事をした場所であり、母が永眠している場所でもある牡丹江をこの目で見てみたいと、ずっと思ってきた。

 

真代さんの母の西村節子さんは航空学校で糸川さんと結婚し、1950年に真代さんを産んだが、1952年、牡丹江で病没した。真代さんはその後、日本に連れて帰られ、母方の祖父母に養われた。父は帰国後、真代さんが結婚するときに、一冊のノートを彼女に渡した。それには父が航空学校でしていた仕事のことや節子さんと恋愛結婚したこと、真代さんの身の上などが細かく書かれていた。真代さんはこれを大事にしまっていたが、今回、母の墓参りのために、とくにこのノートを持ってきた。

 

6月11日、牡丹江に着いたその日の午後、代表団は、革命につくした烈士を祀る霊園の中にある日本の友人の墓地に詣でた。花崗岩の墓碑には33人の、かつて牡丹江の航空学校で働いた日本人の名前が刻まれている。その中には、入角さんの姉の敏子さんや真代さんの母の節子さんの名もあった。

 

墓碑の前に花輪や供物、線香が供えられた。入角さん、智恵さん、真代さんは涙を浮かべ、姉や母のために手を合わせた。代表団員や付き添いの人々も厳粛な雰囲気の中で、英霊に礼拝した。日本の友人たちは墓碑の傍らに一本の松を記念植樹した。

 

その夜開かれた牡丹江市政府の宴会では、朱副市長が「ここにも航空学校の子孫がいます」と市外事弁公室の尚紅傑科長を紹介した。尚さんの父はかつて航空学校の第2期の教官をつとめたが、すでにこの世を去っている。彼女は杯を持って「皆様にお会いでき、父と同じような身内に会ったような気がします」と挨拶した。

 

代表団の砂原恵秘書長が山本真代さんを招き、尚さんと真代さんはしっかりと抱き合った。真代さんは「私はまた妹に会いに来るわ」と言えば、尚さんは「お姉さんが来られないときは、私が代わってお母さんの墓に詣でます」と言った。真代さんは感動し、涙を流し、その場にいた人々も目頭を抑えた。

 

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