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里帰りした鉱物顔料

 

中国では古代から、さまざまな鉱物顔料を使った彩色画が描かれ、唐の時代に全盛期を迎えた。その技法は日本に伝わり、色鮮やかな日本画として開花した。だが、その後中国は水墨画の時代を迎え、鉱物顔料の絵具の技法は失われてしまった。

 

しかし、「改革・開放」後、中国で開かれた日本画の展覧会で、日本画が中国では失われた鉱物顔料の技法を使って、素晴らしい効果を挙げていることが分かった。中国の画学生たちは続々と日本に留学、鉱物顔料の技法を学んで帰国した。

 

そしてこの10年ほどの間に、鉱物顔料を使った彩色画「岩彩画」が中国画壇で大いにもてはやされるようになった。中国から伝わった技法が日本で発展し、再び中国に逆輸入されたのである。(文中敬称略)

 

「丹青」は絵画の代名詞

 

千年の歳月を経ても、絢爛たる美しい色を保っている敦煌・莫高窟の壁画



 

中国における鉱物顔料を使った絵画の歴史は、先史時代の彩陶文化にさかのぼる。河南省の仰韶村で発見された農耕文化遺跡から、彩色を施した多くの彩陶土器が出土した。時代は下がって秦の時代(紀元前221~同206年)の兵馬俑は、もともと鮮やかに色がつけられていた。さらに前漢時代(紀元前206~紀元25年)の馬王堆の墓からは、しっかりと色付けされた帛画(絹に描いた絵)や漆器に描かれた絵が出土している。唐(618~907年)や宋(960~1279年)の時代には、敦煌・莫高窟の極彩色の壁画や巻軸の色彩豊かな細密画が描かれた。

 

これらはいずれも鉱物顔料を使っている。中国では絵画のことを昔から「丹青」というが、もともと「丹」は赤い色をとる辰砂を指し、「青」は藍色をとる銅鉱石やラピスラズリを指した。

 

唐の時代に鉱物顔料で描かれた「重彩画」(濃厚な彩色画)は、日本に大きな影響を及ぼした。日本の絵画は唐代の絵画を基礎に発展したので、日本では「唐絵」と呼ばれている。したがって、中国の「重彩画」は、現在の日本画の母体と言ってもよい。

 

「岩彩画」 高占祥・『夏の蓮』



 

しかし、中国では、宋や元(1206~1368年)の時代から水墨画が絵画の主流になり、伝統的な「重彩画」はおろそかにされてしまった。一方、日本は明治維新を経て、西洋芸術を急速に吸収し、新しい日本画を誕生させた。

 

1970年代末、文化の発展を締め付けていた「文化大革命」が終わり、中国美術界も世界に目を向けるようになった。名高い日本画家の東山魁夷、平山郁夫らが相次いで中国で大型展覧会を開催した。これは中国美術界に大きな衝撃を与えた。

 

人々は日本画の上品さ、素晴らしさを賞賛するとともに、意外にも日本の巨匠たちが鉱物顔料を使っており、その作品の中に中国の伝統的な要素を内蔵していることを発見し、喜んだ。そして多くの中国の留学生が続々と海を渡って日本へ美術の勉強に行ったのである。

 

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