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里耶 竹簡と木簡が語る古代社会

 

丘桓興=文 魯忠民=写真

里耶は、湖南省龍山県にある小さな鎮である。ここで2002年4月、戦国時代の古城の遺跡が完全な姿で発掘され、古城の古井戸から3万6千枚以上の秦簡(秦の竹簡・木簡)が発見された。この発見は考古学界に大きな衝撃を与え、専門家たちは新中国の考古学におけるもっとも重要な発見の一つと評価している。

里耶古城の発掘現場

楚の国の古城から発見

湖南省北部の武陵山奥地に抱かれた里耶鎮は、湖北省、重慶市、貴州省と境を接しており、湘西トゥチャ(土家)族・ミャオ(苗)族自治州龍山県に属する。この地を流れる酉水の流れは美しく、自治州の人々にとっては「母なる川」である。酉水は洞庭湖に流れ込み、さらに長江に注ぐ。

1985年6月、里耶鎮の瓦職人たちが土を掘り起こして瓦の生地を作っていた。そのとき、陶器や兵器が掘り出され、考古学界から注目された。

2002年4月17日、碗米坡水力発電所の建設工事に合わせて、湖南省考古研究所は考古発掘チームを編成して里耶に派遣し、緊急発掘を行った。そして、2千年以上眠っていた里耶古城や数百基の古墓が再び白日の下にさらされたのだった。

里耶古城の遺跡は、もとは里耶小学校の敷地内にあった。小学校はすでに移転し、現在は完全な姿の里耶古城遺跡を見ることができる。

遺跡は、東は酉水に接し、長方形の平面で、敷地面積は1万平米をこえる。西、南、北3方は城を守る濠となっている。土で造られた城壁の土台はかなり良く保存されていて、屋敷の建築跡や街道の遺跡、排水施設がはっきりと識別でき、多数の古井戸が古城の内外に分布し、古代都市の完全な姿を構成している。

専門家は、遺跡から出土した器物や兵器を分析した結果、この城は戦国時代(紀元前475~同221年)の楚の国が築いた軍事施設であり、戦国時代の末期、秦の大軍が烏江流域から酉水流域に攻め入り、楚の軍は東に移動せざるを得なくなり、この城は捨てられたと論証した。

一号の古井戸からは、3万6千余枚の秦簡が発見され、世界を驚かせた。この古井戸の周りには直径4メートル以上の囲いがあり、上部は円形、下部は方形をしている。井戸の口から地表までの距離は3メートル、井戸の口から井戸の底までは14.28メートル。井戸の壁は、幅30~40センチ、厚さ10~15センチの方柱形の木材をほぞ孔にはめ込んでつなぎ、一段一段積み重ねて築かれていて、あわせて43段がある。

3万6000余枚の秦簡が発見された里耶古城の1号古井

乗法の口訣が書かれた里耶の秦簡

発掘してみると、秦簡は、井戸の最下層部に積み重なっていた。その上には4層の堆積物があり、陶器、玉器、鉄器、兵器、瓦当(文字や模様が刻まれた先端部分)などが出土したが、いずれも秦・漢時代の遺物であった。

考古発掘現場を訪ねたことがある北京大学考古文博学院の院長の高崇文教授はこう言う。「春秋時代(紀元前770~同476年)から前漢時代(紀元前206~紀元25年)までの竹簡・木簡で、一回にこれほど多く、このように歴史的価値の高いものが発掘されたのは初めてだ。里耶から出土した秦簡の数は、当時、中国で発掘された秦簡の総数をはるかに上回っていた」

簡で知る漢字の発展

竹簡・木簡は、戦国時代から魏晋・南北朝(220~589年)まで使われた記録材である。細長く削られた竹片は「簡」といい、木片は「札」あるいは「牘」というが、それらを総称して「簡」という。簡はいずれも毛筆と墨を使って文字が書かれる。もし文字を書き間違えたら、小刀でそこを削り、書き直す。

文字を書き終えた簡は、紐あるいは細い牛の皮ひもで順番にくくられる。綴じた簡の長さはそれぞれ違う。たとえば、詔書や律令を書いたものは3尺(約67.5センチ)、経文は2尺4寸(約56センチ)、民間の手紙は1尺(約23センチ)である。

簡は、中国で製紙の技術が発明され、紙が普及する前に使われた主要な記録材で、簡が使われる前は、文字は甲骨や鐘鼎に刻まれた。これを「甲骨文」「鐘鼎文」という。

甲骨文は中国で発見されている古代漢字の中でもっとも時代が古く、体系が比較的に整っている文字である。甲骨文は主に殷墟の甲骨文を指し、商(殷)王朝の後期(紀元前14~同11世紀)に王室が占いをし、それを記録するために、亀甲や獣骨に刻んだり、書いたりした文字である。

19世紀の末期、清の最高学府である国子監の役人だった王懿栄が偶然、「龍骨」と呼ばれる漢方薬を見つけ、好奇心から裏返しして見ると、文字のような符号があるのを見つけた。こうして甲骨文が発見されたのである。

その後、人々は「龍骨」が出土した場所――河南省安陽の小屯村を探し当て、大量の「龍骨」を発掘した。「龍骨」は主に亀甲や獣骨なので、その上の文字は「甲骨文」と呼ばれた。

今までに発見された甲骨は約15万枚、文字は4500以上。甲骨文に記録されている内容は、商代の政治、軍事、文化、社会習俗、天文、暦法、医学薬学など多岐にわたり、中国古代、とくに商代の社会や歴史を研究するうえできわめて貴重な第一次資料である。現在、識別できる甲骨文は約1500文字である。

 

里耶竹簡。洞庭郡と輸送路を記録している

商代や周代の青銅器に刻まれた銘文は、金文といい、鐘鼎文とも呼ばれる。商代、周代は青銅器の時代であり、青銅の礼器の代表は鼎、楽器の代表は鐘である。このため「鐘鼎」は青銅器の代名詞となり、青銅器上の文字は「鐘鼎文」と呼ばれるようになった。周代以前は、「銅」を「金」と呼んでいたため、青銅器上の銘文も「金文」と呼ばれる。

金文が使われた歴史は約1200年以上、文字の数は全部で3722あり、そのうち識別できたのは2420文字。青銅器の上の銘文は主に、先祖や王侯たちの功績を賞揚するとともに、歴史上の重大事や社会生活も記録している。金文は漢の時代から絶えず出土しており、学者たちが研究してきた。金文は商・周から戦国時代の文字を研究するうえでの重要な資料であり、秦代以前の歴史を研究するうえで、もっとも貴重な資料である。

甲骨文であろうと、鐘鼎文であろうと、それが書かれた素材には限りがあるため、文字を知っていたのは上流社会の少数の人だけで、文化や思想の普及は大いに制限されていた。西周以後の簡の出現は、文字とその普及にとって重要な革命であったことは疑いない。それによって、文字は初めて上流社会の小さな枠から解放され、低廉で手に入り易い素材を用いて社会に広がっていった。簡の出現によってはじめて、春秋・戦国時代の百家争鳴(多くの学者が自説を発表し、論争すること)の盛況がもたらされ、孔子や老子などの大家の思想を今日まで伝えることができたのである。

歴史の空白を埋める

紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一し、2千年以上にわたる封建的中央集権制度の基礎を築いた。しかし、秦はわずか15年しか続かず、秦の歴史についての記載は非常に少ない。

一方、1975年、秦王朝の本拠地から遠く離れた湖北省雲夢県の秦代の墳墓から、秦律(秦の法律の総称)が記載された竹簡が出土した。これは2002年に里耶で出土した秦簡とあわせて、秦代の歴史の空白を埋めた。これによってわれわれは、秦王朝の制度の実態や、中央集権がいかに辺境地域を管理し、支配したかを、実際の資料によって理解することができるようになったのである。

秦律は早く散逸し、現在見られる一部の秦律は、湖北省雲夢の秦墓から発掘されたので、「雲夢秦律」と称される。600余りの竹簡に律文や問答、その他の文書資料などが書かれていて、約1万7千字ある。現存する中国最古の法律条文である。

「雲夢秦律」の大部分は役所の行政法規的なもので、大小の官庁の機構や規則、制度は非常に厳密であった。秦代の法の執行は非常に厳しく、官吏の不正行為や汚職、収賄があれば、みな重い懲罰を受けた。律文の中には、軍隊の訓練や軍紀や賞罰などの軍事に関する内容が含まれているものもある。

さらに『田律』のような律令は、河川の流れや山林などの自然資源を保護するために制定されたものだ。法律の問答は全部で187条あり、法令の条文を解釈するために編纂され、その内容は人身の傷害、財産の侵犯などの刑事犯罪が多い。

専門家たちの初歩的な考証・解釈によると、里耶から出土した膨大な数の秦簡はほとんどが役所の公文書の記録で、かなりの部分が日誌の形式で書かれている。秦が全国を統一する前の秦王政25年(紀元前222年)から秦の二世皇帝元年(紀元前209年)までは、里耶の秦簡は一年の欠落もない。

その中に言及された地名は遷陵、洞庭郡、戈陽、酉陽などの数十カ所にのぼり、言及された官職名は司空、司馬丞、守丞、令丞などがある。また、さまざまな姓氏も出てくる。さらに「九九八十一、八九七十二、七九六十三……」という乗法の口訣の「九九表」もある。このように里耶から出土した秦簡の内容は、秦代の政治、経済、軍事、立法、数学、郵政などの各方面に及んでいる。

これらの文書を整理して専門家たちは、秦代の文書の受領や発送、書き写し、伝達の制度をはっきりと理解することができた。歴史学者の李学勤氏は「当時の文書制度は厳密であり、また重たいものだった」と言っている。里耶から出土した3万6千余りの秦簡の20万以上の文字を見た専門家たちは「これは秦王朝の歴史の復元だ」と述べている。

同時に秦簡は、中国の書道史上にも重要な地位を占めている。秦が中国を統一してから、全国的に小篆(漢字の書体の一つで、秦の李斯の創始といわれる)を通用させたといわれるが、例外もあるようだ。里耶から出土した秦簡の役所の文書には古篆、古隷、秦隷、隷の中に楷書を帯びたものなど多種の字体がある。

上の指示を受け下に流す文書でさえこのように形式にこだわらないものだったので、当時はきっと民間の書道もすべてが制限されるということはなかったのだろう。大量の簡の文字は、小篆、隷書の変遷過程の研究に重要な意義を持っているのである。

古城の街道

里耶古城の過去と未来

「里耶」は、トゥチャ族の言語では「耕地を開拓する」という意味である。今から6千年前に、人類はすでにここに居住していた。現在の里耶古城は、清代の建築の姿かたちとトゥチャ族の伝統的な建築の特色を依然として持っている。現存する伝統的な民家は510棟、路地や横丁の全長は2491メートル、通りに面する建物はほとんどが二階建て。通りに面して店があり、後ろは庭になっている伝統的な木造建築で、煙を通して暖をとる壁が黒いレンガで造られ、軒先は反り返っている。

県誌の記載によると、里耶の建物と埠頭は明・清の両時代をまたいで建設された。当時、山間部地帯の桐油、茶油、生漆、五倍子などの土地の特産品を大量に販売していた。里耶は水運の便が良く、たちまち湖南、湖北、重慶周辺一帯の貿易の中心地、工業製品と農産物の集散地となり、湖南西部地区の4大古城の一つとなった。

多くの外地の商人がここに定住して商売を営み、住宅と店舗を建てた。明・清時代には7つの街路と10の横丁や路地があった。1934年、里耶の商業会議所の統計によると、里耶鎮で商売をしている商人は423戸にのぼる。その後、近代的な道路交通が次第に水運にとってかわり、里耶も次第にさびれて、省境にある遅れた小さな鎮となった。

しかし考古学上の新発見の一つ一つが、里耶鎮の昔の神秘的な歴史を一つずつ解き明かし、この古城は再び新たな歴史を刻み始めた。2平方キロ足らずのこの鎮に、旧石器時代から新石器時代の遺跡、商・周の文化遺跡、戦国、秦・漢の文化遺跡があり、また戦国、前漢、後漢時代の三つの古城遺跡と千以上の戦国、秦・漢の古墓があることが明らかになった。

三つの古城、すなわち里耶古城、魏家寨古城と大板古城は、里耶から出土した秦簡に記載された史料によると、恐らく歴史上の遷陵、酉陽、黔陽という三つの地名と関係があるだろう。

簡の研究はまさに深く続けられているが、さらに多くの研究成果が世の中に示されて、さまざまな謎を解くことになるに違いない。

 

人民中国インターネット版 2010年11月

 

 

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