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孔子にも大きな影響

 

莒県浮来山にあるイチョウの木は高さ26.7メートル、周囲15.7メートルで、大人8人がかりでやっと囲むことができる 

 莒県浮来山には、莒文化の「自然博物館」とも言える樹齢4000年近いイチョウの木がそびえ立っている。遠くから見るとまるで丘のようで、樹冠はまるで絹がさのようだ。中国最初の詳細な編年史である『左伝』には「魯の隠公8(前715)年9月辛卯、公と莒人は浮来で盟する」とあり、春秋時代に境界紛争がたびたび起こった魯莒両国の君主が、このイチョウの下で盟を結び関係修復を行ったことが記されている。  

 また、中国の故事成語に「勿忘在莒」(莒に在るを忘る勿れ)の「莒」はすなわち莒国のことだ。春秋時代、斉の国内は乱れ、公子の小白は莒国に亡命したが、後に莒の軍隊に送られて斉に戻り即位した。春秋五覇の筆頭に数えられる斉の桓公である。斉の桓公はその後名を成してごう慢になったため、宴会の席である大臣が酒をすすめる機会を借りて「大王さま、莒に逃げていた日々をお忘れになりませんように」といさめた。桓公はこれを聞いて何度も礼を言い、「余と士大夫がみなそなたの言葉を忘れなければ、斉の国は永遠にゆるぎない」と話した。今この故事成語は、以前の苦難に満ちた日々を忘れないという意味で使われている。  

 秦が6国を統一した後、始皇帝は莒国の地を莒県と改称した。前漢成立後、莒地には城陽国が建てられ、高祖劉邦の孫にあたる劉章が城陽国最初の君主となった。莒州博物館には、莒県で出土した漢代の画像石墓(石闕などに浮彫や線刻の画像を有する墓)が展示されており、当時の風土や人情を見ることができる。このうち、画像石の「親吻図」(キスの図)は二つに分かれており、下には男女が互いに抱き合ってキスをしている状態が描かれており、女性の後方には下女が控えている。蘇さんによれば、そばに第三者がいる状態で男女がキスをしているものは珍しく、中国の古代にはキスの儀礼があったことを意味しているという。  

 莒文化の真髄について蘇さんは、莒人は創造を受け入れ、言行や礼儀を重んじる精神を持ち、孔子が打ち立てた儒家学派も莒文化の影響を受けていると考えている。斉文化や魯文化に比べて莒文化が輝かしく記録されていないことについて、蘇さんは、歴史を書いたのは魯国であり、莒魯間の関係から輝かしく記載することができなかったのが原因だとしている。現在、莒文化は日増しに高く認められるようになっており、莒文化が斉文化、魯文化の成熟を促したと考えている研究者も少なくない。  

 莒州博物館には、もう一つ蘇さんが誇りとする文化財――卵殻陶がある。蘇さんは1998年に定年退職したが、ずっと心残りがあった。それは卵殻陶が発掘できなかったことだ。諦めきれない彼は、翌年莒県でついにそれを掘り当て、願いをかなえたのだった。卵殻陶は、前2600~前2000年頃に中国黄河中・下流域の新石器時代に栄えた文化――龍山文化を代表する陶器で、黒陶の中でも傑作とされ、「漆のように黒く、鏡のようになめらか、紙のように薄く、磁器のように硬い」と形容される。  

 莒県以外にも、日照では東海峪遺跡や両城遺跡から卵殻陶が出土している。1970年代に東海峪遺跡から出土した「卵殻黒陶はめ込み高柄杯」はより素晴らしい逸品で、造形は力強く優雅で姿はしなやか、杯の最も薄い部分は0.5ミリにも満たず、龍山文化時代の黒陶製作技術の最高水準を示している。日照では黒陶制作工芸が代々伝えられ、現在は工芸の大家がこの伝統技術の上に絶えず改良や刷新を行っている。

 

日照東海峪遺跡から出土した「卵殻黒陶はめ込み高柄杯」(写真提供日照市人民政府新聞弁公室) 

黒陶は実用品として現在も使われている。写真は小麦粉料理のために使う型で、日照の黒陶の大家邢葆東氏の所蔵

 

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