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歴史の本当の姿を知るために

 

 本科生の時に山口淑子さんの自伝を読み、こんな人生を生きている人がいたのかと衝撃を受けたのがこの研究を志したきっかけです。山口さんは18歳で李香蘭としてデビューされましたが、私が単身北京に来たのも18歳。同じ年齢の時に同じ中国で過ごしているのに、時代が違うだけでこれほど違う人生を歩んでいる。日中関係の難しさも肌で感じてきただけに、山口さんの苦悩が、痛いほど心に響きました。

 

戦時中北京大学へ留学したものの、徴兵され、卒業できなかった祖父がいたことが、中国に来たきっかけです。高校生の時に北京大学の先生に「留学させて下さい」と英文の手紙を書き続け、高校の卒業式の一週間後に、北京にやってきました。

 

来たばかりの頃はつらかったです。中国語は全然聞き取れないし、「箱入り娘」がいきなり一人で外に出て、孤独というものを初めて味わいました。

 

一番楽しかったのは、修士課程の時。先輩後輩、クラスメートみんなとても仲がよくて、2年の時にみんなで準備した国際シンポジウムが一番の思い出です。打ち上げの時、みんなが私の周りに集まってくれて、「みんなあなたが大好きよ」って乾杯してくれた時は涙が出そうでした。

 

留学を通して学んだ一番のことは、矛盾するようだけれど「真心は言葉じゃない」ということと、「言葉にしなければ通じない」ということ。本当に相手のことを思っていたら、言葉なんか関係ない。真心って伝わるんです。それと同時に、自分ひとりで相手を気遣ったり、遠慮したり、不満に思ったりしていても、そういうことって、言わなきゃ絶対伝わらない。

 

修士論文では、李香蘭の主演映画を整理し、中国と日本でのイメージの違いを分析しました。論文のための資料を収集している時に、初めて山口淑子さんにお会いすることができました。日中学術交流のボランティア活動で知り合ったある先生にご紹介いただいたのですが、何年も前に出版された自伝に載っている写真とご本人が全然変わっていなくて、びっくりしました。それからすごくかわいがって頂いて、李香蘭が中国人の義理の娘になったように、私も山口さんの義理の娘にという話もでるほど仲良くしていただいています。最近、ちょっと舞い上がってしまって、怒られているところなのですが。

 

博士論文では満州映画協会について書いています。日本の歴史観も、中国の歴史観も、私には違和感がある。国の思惑はあるんだけれども、当時生きていた人達にはそれぞれ思いがあって、現実と折り合いをつけながら、その時に許される限り、その思いに忠実に生きていたんです。歴史の本当の姿を知りたいという思いで、ここまできました。

 

卒業してからも、研究は続けていきたいですね。でもやってみたい事もたくさんあるので、形にこだわらず、可能性があれば様々な事に挑戦したいです。日本と中国は私の原点ですが、それにもこだわらないで、もっとたくさんのことを学びたい。そうすることで、日本と中国のことも、もっとよく見えてくると思うんです。社会は多様な他者との関係で成り立っている。それが、20代を捧げた中国での留学生活と、比較文化という研究を通して学んだことです。  (北京大学 博士研究生 古市雅子さん)

 

 

【プロフィール】東京生まれ。19963月より北京在住。中文系本科、修士課程を経て、現在は博士課程に在籍、博士論文を執筆中。趣味は映画鑑賞。
修士論文:『193040
年代の日本軍東北占領時における日本の対中文化政策に対する一考察――「満映」時代の李香蘭出演作品を中心に』
博士論文(執筆中):『193040年代における日本の対中文化政策―満州映画協会を一例として』

 人民中国インターネット版

 

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