現在位置: Home>特集一覧>文化
激動の歴史を記憶する 故宮周辺

 

封建社会の終結

 

1984年10月1日、天安門広場で開催された新中国建国35周年を祝う盛大な行進
19世紀中ごろ、旧習にしばられ、世界から立ち遅れた清朝は、欧米列強の圧力に屈して、主権を失い国を辱める不平等条約を結んだ。これにより、国土を失い、人々の生活も困窮した。しかしこれと同時に資本主義の民主的思想も入ってきたため、有識者たちは清朝政府の無能さと封建制度の堕落に気がついた。

 

1911年10月10日、武漢で清朝政府を倒す第一砲が放たれた。そしてすぐに、中国全土で11の省が独立を宣言した。

 

1912年元旦、革命党人は中華民国を樹立。北京に進軍し、清朝政府を討伐した。当時、清朝の皇帝はわずか5歳の溥儀。まだ世の中のこともわからない幼い皇帝は驚き怯えながら退位を宣言し、清朝は終末を迎えた。

 

皇帝の前庭から人民の広場に

 

 

北京の中心に位置する天安門広場は、明・清代には東、西、南の3面が城壁に囲まれる「T」字型の大きな庭だった。

 

皇帝たちは重大な決定事項を発表する際、天安門の城楼に登り、聖旨を読み上げた。役人たちは下の広場でひざまずきながらこれを拝聴した。つまり、天安門広場は紫禁城の前庭であり、皇居の威厳や神秘性を引き立てる役目を担っていたのだ。

 

1949年10月1日、毛沢東主席は天安門の城楼に登り、中華人民共和国の成立を厳かに宣言した。これは、新中国の誕生と人民政権の樹立を意味する。これにともない、天安門広場の役割と規模も変化し始めた。

 

1950年代、梁思成や張開済、沈勃など中国建築学界のエリートたちの設計により、天安門広場の城壁と一部の門楼(門の上に建てた屋根のある建物)は取り壊され、広場は百万人以上を収容できる広さに拡張された。

 

天安門の西側の社稷壇(皇帝が、国に自然災害がないことと五穀豊穣、そして朝廷の安定を祈った祭壇)は、人々が憩う中山公園に変わり、東側の太廟(皇帝の祖先を祭る御霊屋)は、労働人民文化宮に変わった。

 

そして50年代末、人民大会堂と中国歴史博物館・中国革命博物館(2003年に中国国家博物館と改名)が広場の西側と東側に相次いで完成。この二つの建物は、中国の伝統的な建築構造に準じたうえ、西洋建築の風格も取り入れられた。これに広場の中心にそびえる高さ38メートルの人民英雄記念碑が加わり、天安門広場は中国人民が歴史を創造し、政権を握った時代を鮮明に体現している。しかしこれにより、紫禁城は貴重な宝物や伝奇・物語を詰め込んだ裏庭のようになり、天安門広場の飾りとなってしまった。

 

天安門広場はこのときから、中国人の心の拠り所となり、世界が注目する中国の焦点となったのだ。

 

   >>   1   2  3   4   <<  


人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。
本社:中国北京西城区百万荘大街24号  TEL: (010) 8837-3057(日本語) 6831-3990(中国語) FAX: (010)6831-3850