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深圳の都市化、ハードからソフトへ

 

陳言=文

30年前の1980年8月26日に、中国政府は、深圳をはじめとする4つの沿海都市を経済特別区に指定した。これが深圳特区の始まりだった。

そのすぐ後に、筆者には深圳を訪れるチャンスがあった。その時の大きな関心事は、深圳特区が今後どうなるかといったことより、せっかく手に入れた特区に出入りできる証明書を使って、「中英街」という香港側にあるアパレル商店街へ行って、格好のいい服を買うということだった。深圳と香港の境界には白い一本の線が引かれているだけで、香港側のアパレル街には簡単に入れた。多くの都市ではまだ人民服が主流で、「ファッション」にあたる言葉もない時代だった。

その後も何回か深圳に出かけた。どこも建設中でほこりっぽく、道もあまり整備されていなかった。やがて「中英街」まで出向かなくても、深圳の街中でいろいろな服が買えるようになった。カラーフィルムの現像は北京ではまだできなかったので、撮ったカラーフィルムは深圳で現像してプリントを持ち帰った。

いつの間にか、パソコン、携帯電話、MP4などが、中国国内どこの電器関連の店でもカウンターへ行けば、自分の好きな仕様のものが手に入るようになり、アパレル街や写真現像店などは、どの都市でも当たり前になってしまった。

人口2、3万人の漁村は、1400万人を抱える大都会となり、政策一つでこんなにも大きな変化が起こるものなのかと目を疑うほどだ。これからの30年にどう変わっていくのか、深圳から目が離せない。

投資が投資を呼ぶ発展モデル

GDPから見ると、30年前の深圳は、2億元だったが、2009年は8201億元を記録し、4000倍の増で、年率に換算すると、年25.8%の成長を続けてきたことになる。しかも一人当たりのGDPの伸びは、北京、上海をはるかに上回っている。

深圳特区の構想を練っていた鄧小平氏は、当時、広東省省長だった習仲勲氏に、中央政府には資金がないので与えられないが、自由を与える。大いにやってほしい、と話したそうだ。当時は商品が極端に不足していたため、日常生活用品や服飾を提供することで、特区の発展が勝ち取れることは予測できたが、深圳ではむしろ投資が投資を呼ぶことによってより速い発展が図られた。

まずインフラ建設が積極的に進められた。深圳市内だけでなく、香港行きの水路、道路が整備され、さらに中国各地への鉄道、高速道路なども建設され、物流が整った。次にホテル、オフィスビル、住宅の建設を進め、深圳に行けば住む所があるという現実を確保した。

1980年代中期以降にも、筆者は数回深圳を訪れる機会があったが、その時訪問したのは、日系のテレビメーカーなどであり、中国の大衆消費ブームの到来を予測したかのように、その工場で作られたテレビは全中国へ運ばれ、飛ぶように売れた。

テレビだけではなく、テープレコーダーや洗濯機、冷蔵庫、ビデオデッキなどが、深圳から広州へ、広州から広東省全域へ、広東から全中国へと波を打つように押し寄せたのである。

そして耐用消費財もデジタル製品へと変化していった。プリンター、ファックスを製造する企業も深圳には多く進出しているが、デジタル製品製造では、新しい機種を作ろうと思えば、車で1時間ぐらいの範囲内に、新機種の部品を作ってもらえる工場がすぐ見つかる。日本以上に便利な下請け体制ができあがっているのである。

工場を見学する際案内してくれる企業の幹部社員は、20年あまりの間にどんどん新しい人に変わり、また工程管理のベテランを多く見かけるようになった。しかし、ラインで働いている労働者はいっこう年を取っていない。女性労働者の場合、結婚したらすぐ農村に戻るが、男性でもある程度の金を貯めると、農村に戻って行くという。組立ラインでは、何年間も習熟して身につけるような技術は必要としておらず、簡単な研修さえ受ければ、すぐに働ける。労働者の流失を心配する必要はなく、新しい労働者の流入によって、企業は給料を引き上げなくても生産は順調にはかどるというメリットを享受してきたのである。

次の30年周期はむしろソフトが重要

投資が投資を呼ぶ中で、深圳はみるみる成長した。住宅団地が市の内外に林立して人口は1400万人にも上っているが、戸籍上の人口はわずか300万人未満である。

陳言

コラムニスト、『中国新聞週刊』主筆。1960年に生まれ、1982年に南京大学卒。中日経済関係についての記事、著書が多数。

戸籍上の人口が少ないため、将来の持続的な発展を保障する教育などに、深圳政府としては、それほど投資する必要はなかった。教育への投資額はGDPの2%にすぎない。出稼ぎに来た労働者は、30歳を過ぎれば農村に戻るから、彼らのための医療保険、教育施設、老後保障などは、ほとんど整備する必要がなかった。

投資が投資を呼ぶといううまみを存分に生かしてきた深圳が、これまでに政府関連の機関を通じて誘致した投資は600億元だったが、30年を契機に、今後5年間にさらに600億元を60のプロジェクトに投資するという巨大な計画を立てた。

もちろん、その中には、アイデア産業やインターネット関連企業の養成、金融関連会社の誘致なども含まれているが、タイミングはすでに遅い。ソフト産業への転換には、どうしても大学、研究所などのサポートが必要である。今日、都市の性格がますます似通ってきている深圳、香港とシンガポールを比べてみると、高等教育の面で深圳は非常に立ち遅れている。また小中学校と高校での教育も数段立ち遅れており、簡単に追いつくものではない。

深圳は高級人材を引き付けるが、その高級人材を支える中間のしっかりした人材がなかなか確保できない。これは今後も長期間にわたって深圳が頭を痛める課題であろう。実は、この課題は深圳だけでなく、およそどの中国の都市でも頭を痛めている問題なのである。

 

人民中国インターネット版 2010年9月15日

 

 

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