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現在位置: 2010年 上海万博上海万博、縦横無尽

情熱とアイデアにあふれていた日本人

 

陳言=文

中村法道長崎県知事が、中国の国会議事堂にあたる人民大会堂で「8月24日から29日まで、上海万博会場で『孫文と梅屋庄吉展』を開催する」と公表したとき、中村知事の顔はこころなしか輝いていた。

来年の2011年、封建体制を打ち倒して近代中国をつくるきっかけとなった辛亥革命の100周年を迎える。中国では今、日本を拠点にして革命活動を繰り広げた孫文はじめ辛亥革命の偉人たちが、あらためて注目を集めている。孫文の活動を全力をあげて支援した長崎県出身の梅屋庄吉の事跡が、孫文とともに上海万博会場で紹介されることは、辛亥革命100周年記念活動の地ならしと言ってもいいだろう。

このように、上海万博は、古代(遣唐使)、近代(孫文と梅屋庄吉)、現代の歴史を通じて、中日関係を新たに考えさせる場にもなっているのである。

『孫文と梅屋庄吉展』

孫文と梅屋が共有したもの

「1895年、当時27歳の梅屋庄吉は、25歳の孫文と香港にある梅屋写真館で初対面したそうです」と中村知事は明かす。

その前年の1894年に、孫文はホノルルで『興中会』を組織し、また95年には広州で武装蜂起を指導した。失敗して孫文は海外へ亡命する。95年はまた甲午戦争(日本では「日清戦争」という)で清朝が敗戦した年でもあった。

20代半ばの2人の青年は、肝胆相照らし、「君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す」と年上の梅屋が孫文を励ます。甲午戦争は別にして、アジアが西欧列強の圧力に苦しんでいることをともに憤慨し、人類の自由、平等という考えを2人は共有していたのである。

写真事業を成功させ、さらに映画事業も興そうとしていた梅屋は、人一倍情熱にあふれていた。1915年にはトク夫人とともに奔走し、孫文と宋慶齢の結婚に尽力、結婚披露宴は梅屋邸で行われた。

孫文の革命には、1916年に銃7000挺、機関銃7挺、大砲5門を購入して寄贈し、十数年前の盟約を果たした。その後も私財を投じて、武器、弾薬、飛行機まで調達し、さらに多額の資金援助を繰り返し行った。

梅屋が得意とした写真撮影も孫文の革命活動に生かされた。辛亥革命の当初、革命の過程を撮影したのである。後に梅屋は東京に進出して「日本活動写真株式会社」(日活)を作り、役員にもなった。孫文が1912年に中華民国臨時大統領に就任すると、辛亥革命のドキュメンタリー映画をつくり、中国各地で上映した。これは当時では珍しい中国革命に関するドキュメンタリー映画でもあった。

梅屋庄吉と孫文についての資料は、今日、東京・日比谷の松本楼に行けば、誰でも見ることができるが、中国からそのために出かけるとなると、そう容易ではない。

「上海万博の会場でこのような展示会を通じて、多くの中国の方、日本の方に見ていただきたい」と中村知事は願う。

かつての姿は今いずこに

日本の新聞報道によると、中国が万博を開催するようアドバイスしたのは、日本人だったという。 1984年に、旧日本長期信用銀行(現新生銀行)の訪中団が北京を訪れ、王震副総理(当時)と会見する機会があった。改革開放政策が緒について6年、それまで中国政府の経済担当要員や経済学者と多く交流してきた同行の竹内宏調査部長は、王副総理に中国の参考になる日本の経験を紹介した。

当時はすでに日本は大阪万博だけでなく、沖縄国際海洋博覧会も主催した経験を持っていた。特に大阪万博を前に、千里ニュータウンを開発して成功を収めたことを例に、上海で万博を開催し、その跡地に住宅や金融センターなどをつくるなら、上海でも同じ成功が獲得できると王副総理に熱っぽく語りかけたという。

反応も速かった。王副総理はその場で上海市長に電話をし、「万博を開くための調査にすぐ取りかかってほしい」と指示した。これが上海万博開催に向けた初めての動きであったとされている。

筆者も80年代に何回か竹内氏をはじめ、ほかにも多くの日本の政治家、経済学者、企業の経営者にお会いしたことがある。当時、改革・開放が始まったばかりで、外国の情報などはきわめて不足していた。外国に一週間でも出張すれば、帰国して一冊の本と変わらないほど厚い報告書が書けた。新聞の一面全部をあてた外国訪問記もあったし、訪問記を実際に本にしたものも多く出版された。

陳言

コラムニスト、『中国新聞週刊』主筆。1960年に生まれ、1982年に南京大学卒。中日経済関係についての記事、著書が多数。

簡単には外国に行けない時代だったので、国内で日本人から聞いた話もずいぶん勉強になった。上海万博開催のアドバイスもその中の一つに数えられよう。ほかにも港や高速道路、発電所の建設、企業の誘致など、日本人の言ったことは学校の教室で聞く先生の講義と変わらずに、一語ももらさず記憶したかった。

とにかく明治維新以来の近代工業の建設過程での日本の経験は中国にとって重要だった。そして改革・開放が深化する中で、日本の技術、資金が怒涛のように中国に入ってきた。あの80年代には、アイデア、資金力、技術力などなど、何から何まで日本人はスマートに映ったものだった。

今はどうだろう。ここしばらくは日本の学者、経営者から刺激を受けるような話は聞かれなくなってしまった。筆者もときどき日本へ行く機会があるが、中国では買えない日本語の本、雑誌を買いあさるのが常だ。ところが、書店では誰の著書を買えば、日本の代表的な思想、学問を知ることができるのだろうと、かなり迷う。日本の現況を知ることができる月刊誌、週刊誌の数は極端に少なくなってしまい、中国に持って帰りたいと思わせるだけの価値あるものもけっして多くはない。中日の経営者同士、学者同士が一堂に会した時に、1895年に孫文と梅屋庄吉が交わしたような会話はあるだろうか。また中国の政府要人が日本からの訪中団のメンバーと会う時に、はたしてどれほどの期待をかけているのだろうか。

私の心配は尽きないが、話題が万博からずいぶん離れてしまったので、今回はこのあたりで。

 

人民中国インターネット版 2010年9月9日

 

 

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