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歌謡界の「中日親善大使」に

 

「嬉しい涙流し 手と手重ね 愛が生まれた 戦うよりも 許し合いたい」と、ユウ(幽)燕さん(43)がステージで、この『生命ひとつだけ』を歌うと、日本の聴衆は彼女の美しい声と感動的な歌詞に心を打たれ、中には思わず涙をこぼす人もいた。

中日両国の歌曲交流に熱心に取り組むユウ燕さん(写真・沈暁寧)

ヨーロッパから日本転進

彼女は今日本のステージで活躍する中国人歌手のひとりで、20年前、初めて日本の土地を踏んだ当時は、その後の人生が日本と切っても切れない縁で結ばれるとは思ってもみなかった。「1992年、重慶の西南大学音楽学院を卒業してまもなく、親戚の勧めで、宇都宮大学教育学部音楽科へ研修に行きました。当時、最も行きたかったところはイタリアやドイツなどヨーロッパの国々でした。私はベルカント出身でしたから、やはりヨーロッパの方がレベルが高いからです。日本に来た当初も、短期留学を経て、日本からヨーロッパに飛躍しようと思っていました」と語った。

そうした気持ちで、当時22歳だった彼女は、日本で声楽の勉強と生活を始めた。まもなく、いろいろ悩み始めた。異郷で暮らす寂しさだけでなく、最もなじめなかったのは日本と中国の指導法が異なることで、非常に戸惑った。「中国の先生は言葉と実技の両面、細かい部分まで指導してくれます。しかし、日本の場合は、ヒントを与えるだけの指導法ですから、大まかな方向は教えてくれますが、具体的なことは自ら悟り、かみしめなければなりません」。こうした指導法のため、自分で頭を働かせなければ、先生から正解を引き出すことができなかった。「ある時には、私の表現法がどうしても先生の要求を満たせず、いくら考えても理解できず、頭が爆発しそうでしたよ」と、苦笑いを浮かべた。そこで、彼女は多くの時間を割いて、低学年の授業を聴き、日本の指導法を理解し、基礎を固めた。次第に、環境に慣れ、学業にも進歩が見られるようになった。

1996年、東京芸術大学に転入し、そこでドイツ、フランス、ロシア、日本などの各国の歌曲を学び、また毎月10万円の朝日奨学金も獲得した。4年後、大学院修了後、日本社会で巣立っていった。

理解と愛を込めて熱唱

2008年、四川汶川大地震発生後、彼女は東京、神戸、広島、長崎などでチャリティーコンサートを開催し、被災地のために義援金を集めた。それと同じように、2011年10月には、東日本大震災に遭遇した日本人を支援し、慰労するために、東京、会津、郡山、福島などで相次いでステージに立った。「郡山駅で歌った際、小雨が降り、すごく寒い天気でした。しかし、現地の被災者であっても、コンサートに参加した出演者でも、気持ちは高ぶっていました。被災者にしばらく苦痛を忘れ、笑顔をよみがえらせてもらうために、私は感情を込めて歌い、その時の歌声は本当に心の底から発しました。今でも当時の情景を思い出すと、感動しますよ」と振り返った。

歌声と愛の込もった気持ちが通じ、彼女は日本に多くの「ファン」を持つようになっただけでなく、また「中日親善平和大使」という称号を授与された。現在、過ごしてきた人生は中日半々だが、中国と日本に対する理解と愛を歌声でより多くの両国民に伝え、お互いの理解を深めるお手伝いをしたい、と語っていた。

こうした気持ちから、日本のステージでは中国の代表的な歌曲を歌う。その中、初めて『青蔵高原』の日本語版『千年の祈り』を歌い、日本人にこのチベット情緒が漂う歌曲を楽しんでもらった。現在、この歌はすでに日本のカラオケのリストに収録され、流行しつつある。また、中国のステージに出演する際には、日本の歌曲『折鶴』を歌い、中国の観客に喜ばれている。

「音楽には国境はありません。美しい歌はいつでも人々に感動を与えます。私の歌声を聴くことによって、中日両国民がお互いに相手国の歌を知り、次第に好きになってもらいたい、と願っております」と話していた。

 

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人民中国インターネット版 2013年3月26日

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