訪中して見えた真の姿

2024-02-01 11:24:00

王朝陽=文 

「オンラインで10回会うよりも1回の握手が、10回の握手よりも1回の顔を向け合った交流が勝る。日本の青年が中国を回り、中国の歴史や文化、そして素朴な人情に触れ、中国の発展と現代的な姿を実感することを心から期待する」。昨年11月30日、中国外文局の杜占元局長は2023「Panda杯」全日本青年作文コンクール(以下、コンクール)の授賞式で、訪中団に向けて思いを語った。 

昨年11月24日から12月1日にかけて、コンクールの受賞者たちは4年ぶりの中国の旅に出た。中国を初めて訪れる「新人」も、中国と久しぶりに再会する「旧友」もいたが、訪中後いずれも口をそろえて、実際に中国に来て多くの知見を得たので、帰国後に自身の経験を友人たちに教えたいという感想を述べた。 

これは歴代の受賞者たちの訪中交流後の感想でもある。約1週間にわたる中国の旅は、コンクール最大の目玉だ。第1回を開催した2014年から昨年まで、コンクールの主催側は受賞者を計100人以上中国に招待した。過去10年間、受賞者たちは北京、天津、曲阜、上海、南京、蘇州、揚州、西安、成都などを訪れ、万里を旅した。 

「出発前に家族/友人/クラスメート/バイト先のオーナーが中国旅行をとても心配していた」。毎回、旅行の思い出を振り返る際、訪中団の団員の多くがこの話題から話を始める。心配の理由は「空気の汚さ」から「反日感情の激しさ」までさまざまだ。 

この漠然とした不安について、17年の受賞作「見えなかった透明の壁」で次のように言語化されたことがある。「グローバル化が進む現代は、情報入手の手軽さゆえ、さまざまな国と距離が近づいたかのように錯覚してしまう。しかし、実際はそうではない……『透明(メディア)の壁』が立っているにすぎない。向こうが見えているかのように見えて、手を伸ばせば壁があって触れることができなくなっている」。この透明の壁を破る最善の方法は、相手国に行って、自分の足で歩いて、自分の目で観察することだろう。 

中国をいっそう全面的に理解 

新型コロナウイルス感染症の流行が落ち着いた昨年に訪中した団員たちは、この「透明の壁」をより深く実感したかもしれない。世論調査によれば、この数年間、新型コロナの感染拡大によって中日間の人的往来が阻まれた影響で、両国民のお互いに対する好感度が低下している。 

訪中した高校生の佐久間小夏さんは、「正直、もともと中国にはあまり良い印象を持っていませんでした」と打ち明けた。しかし、帰国間際に今回の旅をこう述懐した。「初めて中国に来て、中国の大学生と交流し、一緒に歴史のある街を歩いたり、おいしい中国の料理を食べたりして、毎日笑って過ごしました。今は中国が好きです。帰国したら、ぜひこの気持ちをクラスメートと分かち合い、中国についてもっと知ろうと思います」 

中国に行ったことのある団員も、今回の訪中で認識を新たにした。IT業界で働く村上千賀子さんは、4年前に上海に出張した。便利なタクシー配車フードデリバリーアプリ、モバイル決済が深く印象に残っている。「当時、日本ではまだモバイル決済が普及しておらず、帰国後に同僚に話したところ、みんな興味津々で休憩時間にわざわざ使い方を聞きに来る人もたくさんいました」と語った。そして村上さんは中国のデジタル産業にも特に関心を寄せている。「あれから4年、中国のモバイル決済がどのように変化したのかとても知りたいです。出発前にスケジュールにデジタル人民元体験が組み込まれているのを見て一番ワクワクしました」 

蘇州市の馮夢龍村で、訪中団はデジタル人民元のハードウォレット(SIMカード)を使った。通常のモバイル決済は、ユーザーの銀行口座などの情報をひも付ける必要がある。外国人観光客が使用するには身分確認など複雑な手続きがあるので、非常に不便だ。しかし今回、デジタル人民元でショッピングしたとき、団員たちはオフライン端末のPOSでカードをワンタッチするだけで欲しい観光土産を購入することができた。外国人観光客が使いづらい部分が完全になくなり、誰でも快適にショッピングを楽しめるようになった。 

待望のデジタル人民元を体験した村上さんは、「モバイル決済は便利な反面、高齢者が利用したがらない、インターネット環境に依存しすぎているといった欠点もあります。今回、デジタル人民元を使って、説明文に目を通した結果、デジタル人民元はこれらの不便を考慮し、適切な改善を行っていることが分かりました。日本のモバイル決済プラットフォームは中国のやり方を参考にし、どのようにサービスを開拓し、より多くの人々に技術発展がもたらす利便性を享受させるかについてよく考えてほしいです」と語った。 

中国に短期留学していた小松由依さんは、蘇州市のハイテク都市としての一面を発見した。蘇州北駅で高速鉄道を下りた訪中団一行は自動運転バス「Robo-bus(ロボバス)」に乗ってオフィス街、商業区、住宅地を有する蘇州高鉄新城(ニュータウン)を一周した。車線変更したときも歩行者が突然横断したときも安全かつ迅速に自動対応する「ロボバス」に団員は何度も驚いた。降車後も一行は興味が尽きない様子で、「もっと予想外の事態に遭いたかった」と冗談を口にする人も。小松さんは「蘇州に来たのは初めてで、北京に留学したときに行った頤和園の、蘇州の風景を模した蘇州街が大好きでした。実際に来てみると、想像とは全く違って驚きました。ここは歴史ある水郷の町であるとともに先進的なハイテク都市でもありました」と語った。 

二千年の歴史を俯瞰 

この10年、訪中団の旅はその広さで日本の若者に多面的な中国の姿を見せた。またその深さで日本の若者に中日交流の先駆者たちがかつて歩んだ道を回顧させた。団員は中国を旅することで両国の文化交流と文明の学び合いの長い歴史を味わい、両国関係の発展を時間軸で認識した。 

訪中団が16年に訪れた揚州は鑑真和上のふるさとであり、彼が日本へ仏法を伝えた旅の起点でもあるとともに、海を越えて中国にやってきた多くの日本の使者や留学僧の起点でもある。揚州鑑真記念堂の庭にある石灯籠は、奈良の唐招提寺から贈られたもので、友好を象徴する灯籠の火は消えたことがない。揚州双博館には、鑑真座像と歴代の日本の遣唐使留学僧の資料が一緒に陳列されている。当時高校生だった角南沙己さんは、揚州を訪れた使者や僧の名前を真剣に一人ずつ確認すると、吉備真備、阿倍仲麻呂、空海の名前を指して、「歴史の授業で習いました」と言った。 

1200年余り前、日本の遣唐使留学僧の多くは揚州に上陸し、そこから中国の旅を始め、はるか彼方に足跡を残した。19年、訪中団は先駆者の軌跡を追い、西安を訪れた。古都西安では阿倍仲麻呂が唐王朝に仕えたときに通っていた興慶宮遺跡公園、空海が仏法を探求した青龍寺遺跡を見学した。 

中国に来たことがなく、中国語もしゃべれない大谷琢磨さんは、阿倍仲麻呂記念碑を見て次のような感想を語った。「阿部仲麻呂は唐に渡り、ここで学び働く中で多くの著名人と交流を持ちました。大詩人李白が彼のために詩を詠んだことから、二人の友情の深さがうかがえます。その頃から日本と中国が深い交流をしていたことを知り、とても感動しました」  

愛媛県から来た日野鈴香さんは青龍寺遺跡で、0の形をした石像を記念写真の相手に選んだ。青龍寺は、空海が日本へ密教を伝える前にいた場所であり、石像には始まりの意味が込められている。「私のふるさとの四国には空海法師と縁が深い88カ所の寺院があり、私もお遍路をしたことがあります。しかし今日、ここが四国巡礼(お遍路)の『原点』であることを初めて知りました」  

初訪中だった清水若葉さんは当時、西安の旅で中日交流の歴史をさかのぼっただけではなく、日本文化の源流も発見した。大雁塔広場で唐の庶民の生活を描いた数々の彫像の中に、相撲を取っている人物がいる。これを見て、清水さんは同行していたスタッフに、「昔の中国にも相撲はあったんですか」と聞いた。そして、相撲や刺し身といった食文化の源流も唐から日本へ伝わったことを知り、日本の多くの伝統文化や生活習慣が中国の影響を受けて発展したものであることに感銘を受けた。 

日本の若者と交流した西安の大学生の秦長志さんは、中日友好の歴史のスタート地点を一緒に探す旅の中で多くのことを感じたという。「日本の若者が先人の足跡をたどって西安を訪れたことで、中国の学生も誠意を込めて、多元的で開放的だった唐代同様に彼らを歓迎しました。その瞬間、時間がはるか昔にさかのぼり、先祖たちの厚い友情が現在の中日の若者の手に託されたかのように感じました」  

未来につなぐ旅 

訪中団は中日の二千年にわたる友好往来と文化交流に焦点を当てたのみならず、近代史の悲惨な一時期と国交正常化以降の両国の日増しに緊密になっている経済人的文化交流にも注目した。より全面的に中日関係の過去と現在を理解した上で、日本の若者は旅の中で、両国の未来や個人の発展を巡って深く考えた。 

14年、初の「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」(12月13日)を迎えて間もなく、訪中団は南京に出向き、南京大虐殺遭難同胞記念館を見学した。団員は表情を硬くして、目の前に展示されている一つ一つの写真や文献資料に足を止め、じっくり見つめた。当時大学2年生だった宇佐美希さんは重い口調で「展示は当時のことを客観視していて、憎しみをあおるのではなく、東アジアの平和を希求するメッセージが強いと感じました。加害国として、中国人の対日感情を深く理解し、真摯(しん し)に謝罪すべきです」と述べた。15年に訪中団は北京で中国人民抗日戦争記念館を参観した。団員の村上恵理さんは参観者のメッセージ帳に中国語で「中国と日本の平和を望みます。私は平和を愛しています。中国人を愛しています。永遠の平和を望みます」と書いた。 

魯迅の没後80周年に当たる16年、訪中団は上海で魯迅故居、内山書店旧跡を見学した。内山書店旧跡では、当時本誌総編集長でコンクールの審査員を務めた王衆一氏が壁に掛けられた「度尽劫波兄弟在、相逢一笑泯恩仇」という詩を団員たちに説明した。「この詩は、『われわれは災禍(さいか)を経ても兄弟のような情誼(じょうぎ)があって、再び会ったときにほほ笑み合えば、過去のあだを水に流せる』という意味です。これは1930年代に、日本がすでに軍国主義の道を歩み、中国侵略を始めていた時期に、魯迅が日本の友人に書いて渡したものです。中日関係が最も困難なときであっても、魯迅は両国人民が最終的に和解し、友好に向かうという信念を捨てなかったことを示しています」 

この詩に多くの訪中青年が感動した。角南沙己さんはこの詩を書写し、「日中関係はいつか良くなる日が来ると書かれているこの詩にとても感動し、自分には両国関係を良くする責任があると感じました」と語った。 

コンクールの審査員を10年務めた森ビル株式会社の特別顧問星屋秀幸氏は、中国の巨大な変化と経済活力を実際に感じ取ってもらうために何回も訪中団を上海環球金融中心に招待した。 

「1972年、大学3年生だった私は進路についていろいろ考えた結果、やはりアジアの国々と関わりがある仕事をしたいと思いました。日中国交正常化という歴史的なニュースが巷をにぎわせていたので、目標がより明確になって、中国人と交流できる仕事に就きたいと思ったんです。7年後に当時の北京語言学院(現在の北京語言大学)に入り、中国語を勉強しました。その後、仕事で3度中国に駐在し、上海宝山製鉄所(現在の宝武鋼鉄集団)などの多くの日中協力重点プロジェクトに携わりました」 

星屋氏から教わった個人の理想と中日関係を結び付けた経験は多くの日本の若者の励みになった。16年の団員濱田麻衣さんは、「日中友好に努力した人たちのおかげで、日中関係は波乱の中でも今日に至るまで発展してきたのだと思います。私も彼らに続いて日中をつなぐ懸け橋になりたいと思います」と語った。17年のコンクール運営委員だった竹村幸太郎さんは「将来は星屋さんのように中国と関わりがある仕事に就きたいと思います」と述べた。 

中日の経済人的文化交流が日に日に緊密化する今、若者が自分のキャリアと両国関係に貢献する理想を結び付けるチャンスはどんどん多くなっている。昨年の訪中団のうち、大学卒業を控えた団員の浅野りつるさんは中国映画中国ドラマが好きで、自分が芸能人のマネージャーになる未来に思いをはせている。「これから上海の大学院に留学して、将来は日本人に中国語を教えたり、日本のタレントの中国進出をサポートしたりしたいです」。高校生の団員渡邉愛さんは、大福自動搬送設備(蘇州)有限公司を見学し、中国市場における日本の先端設備の活躍を知り、キャリアプランを広げた。「将来もし会社に中国に派遣されたら、自分の能力を鍛えるいいチャンスになると思うようになりました。大学に進学したら、中国語専攻か第2外国語で中国語を選んで、勉強を続けたいです。チャンスがあればまた中国に来たいです」と彼女は話した。 

10年間で万里の道を進んだコンクール受賞者訪中団はこれからも歩みを止めない。旅の中で、中国を知り、中日関係を知り、自分を知り、さらに各自の未来に向けて前へ進む。 

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