中華の粋を集めた宮殿

2026-01-29 12:57:00

陽光の下で輝く金色の瑠璃瓦は100年前のままだが、瓦が守っているのは皇帝が治めていた国ではなく、民族の文化の記憶である。 

今年10月10日に創立100周年を迎えた故宮博物院は、皇帝の宮殿から人民の博物館に変遷を遂げたばかりか、世界水準の博物館へと歴史的な飛躍を達成し、中華文明を伝える重要な媒体となり、文化交流を促進する独自の場となった。 

皇帝の宮殿から共有の場所に 

1925年10月10日、神武門が緩やかに開き、これまで遠くから望むしかなかった赤い壁と黄色い瓦がついに大衆に開放された。この日から紫禁城は故宮博物院となった。 

この変化の意義は単なる博物館の成立とはまるで異なる。これは中国が封建社会から現代国家へ転換したことを意味し、皇帝が独占していた文化資本が民族全体が共有する精神的財産となったことを象徴している。 

時間を2025年に戻す。早朝7時、まだ開館していない故宮博物院のオンラインホールにはすでに最初の来場者たちが押し寄せていた。ここでは北宋の名画『千里江山図』巻の筆致の一つ一つまで、どこにいても高画質のデジタル映像で鑑賞することが可能だ。空間の隔たりが技術によって消え失せ、文化の共有は全く新たな次元に突入した。 

1950年代、故宮参観は厳粛な行事だった。人々は重要な儀式に参加するかのように身だしなみを整えて赴いた。当時の参観者たちの多くが故宮に畏敬の念を抱き、宮殿と心理的距離を取りながら仰ぎ見ていた。現在、毎年1000万人以上の来館者が訪れ、何度も来る常連も少なくない。故宮博物院は入念に計画した特別展や文化クリエーティブグッズ、さらにニューメディアを活用して眠れる文化財を呼び覚まし、大衆との距離を縮めている。 

故宮はもはや手の届かない象徴ではなく、人々の文化的生活の一部だ。「石渠宝笈特別展」や「『千里江山図』巻特別展」などは全国の注目を集めた。「故宮口紅」や「紫禁城フレグランス」などの文化クリエーティブグッズは現代の生活に伝統文化を溶け込ませようとする試みだ。歴史や文化財を紹介した書籍を農村部の小中学校に寄贈する「故宮小書包」や、全国の青少年向けのサマーキャンプ「孩子、圓你故宮夢」などの特別公益活動は、若い世代へ中華文明の輝かしい成果を伝えている。故宮のボランティアチームには定年退職した教員、大学生、外国人がおり、さまざまな視点で紫禁城の物語を読み解いている。 

高精度なデジタル技術によって故宮は186万点(セット)以上もの所蔵品をデジタル化して記録した。デジタル技術が故宮文化をより生き生きと多元的な方法で世界に広めている。オンラインホールや高画質映像、バーチャルリアリティー(VR)などで、家にいながらにして故宮の秘宝を鑑賞できる。 

「文化財保護事業の出発点と終着点は、人々の高まり続ける精神文化へのニーズを満足させることにあります。故宮は人類共通の遺産であり、保護するという前提で600年余りの歴史を持つ故宮を活性化させ、人類にこの世界文化遺産を共有させることが故宮で働く人間の責任だと思います」と故宮博物院の王旭東院長は語った。 

5000年を見守る証人 

故宮を形作るれんがや瑠璃の一つ一つに歴史が刻まれ、文化財が文明の継承を語り継いでいる。 

清代の宮殿だった故宮は24人の皇帝の栄枯盛衰を見守ってきたが、その意義はそれだけではない。5000年以上にわたる中華文明の火を脈々と受け継いできた(4)実際の証人であり、文明のDNAを受け継ぐことが可能な物質的な媒体なのだ。 

紫禁城は明代の永楽4(1406)年に建設が始まり、永楽18(1420)年に落成した。敷地面積は約72万平方、最新の統計による部屋の数は8750室に及ぶ。北京の中軸線という「世界最長の都市軸」の核心的な遺産箇所として、紫禁城の建築構造と空間配置には中華文明が脈々と受け継いできた都城計画の知恵が結集している。 

紫禁城の中軸線上にある保和殿と太和殿の名前は『易経』から来ていて、調和、統一という宇宙観が込められている。皇帝の寝室として使われていた乾清宮の「乾清」は、清らかで正しく、天と人の徳が調和する様を表している。外朝の三殿(太和殿中和殿保和殿)と内廷の三宮(乾清宮交泰殿坤寧宮)の規則的な配置は、「前朝後市、左祖右社」(前に朝廷、後ろに市井、左に宗廟、右に社稷壇)という伝統的な構えを表しているばかりか、『周礼』の『考工記』にある「王者は天下の中に居るべし」という都城計画思想を明白に示している。これら中央を尊び左右を対称とする配置は、皇帝の権力が至上である象徴であり、「中和を致す」という哲学思想の空間的表れでもある。 

100年の時を経た故宮博物院には、昔日と変わらず細心の注意を払い、明清代から遺る宮殿の至宝と、旧蔵されていた秘宝が保管されている。書画や器物、書籍書類など186万点(セット)以上の貴重な所蔵品は中華文明の発展史をほぼ網羅している。新石器時代の玉器、商周王朝の青銅器、秦漢代の碑帖ひじょう、唐代の絵画、宋代の磁器、そして明清代の宮廷文化財が、「見える」中華文明史を構成している。 

陶磁器を例にすると、37万点以上が所蔵されている陶磁器は7000年以上前の磁山文化から民国時代まで及び、その範囲は全国の著名な窯跡を対象とする。各時期の重要な様式を網羅し、古代陶磁器の発展の歴史を見渡せる。 

故宮の価値は所蔵品にとどまらず、中華文明の継承と革新にある。改革開放後、故宮博物院は徐々に純粋な文化財保管機関から保護、研究、展示、教育を一体化させた現代的な博物館へと変遷を遂げた。2002年から18年続いた「故宮修復プロジェクト」により紫禁城は壮観な様相を取り戻した。13年から現在までで一般開放の面積が30%から80%に増え、宮殿や庭園が次々に一般開放され、「宮」から「博物院」への大きな転換が実現した。 

時は流れ、5000年の文明を伝える物質的な媒体は存続し続けるばかりか、文化も新たな形式で命をつづっている。故宮のデジタル実験室では、若い技術者が3Dスキャン技術で文化財のデジタルアーカイブをつくっているところだ。伝統技術と現代科学技術がここで交わり、共に文明の火種を守っている。故宮文化クリエーティブチームは『清明上河図』巻の要素からティーセットをつくり、宋代の美学を現代の家庭に届けている。 

清代の深奥なる皇帝の宮殿が今では世界中の来場者のために門戸を開いている。中華文明の流転を見守ってきた至宝が完璧な姿で存続し、光を放っているのは、故宮の文化財保護に携わる人々が代々守り続けてきたたまものである。 

文化の長征と防衛 

故宮博物院創始者の一人である李煜瀛氏はこのような夢を語った。「故宮は過去を封じ込めた静かな歴史の遺跡になるのではなく、世界で影響力を発揮する生き生きした文化の象徴になってほしい」。この願いは世代を超えた人々の懸命な守護と努力によって現実となった。 

資金不足と時代に翻弄される中、初期の故宮博物院職員は中国の現代博物館事業という開拓の道を進み始めた。文化財の登録、整理、展示など、どの作業も先駆的な困難に満ちていたが、誰もがためらうことなく文化の守り手の責任を負った。 

1931年に九一八事変が勃発し、「国が滅びても復興の日は来るが、文化は一度絶たれれば永久に取り戻せない」という考えから、南京国民政府は文化財の南遷に取り掛かった。33年2月6日の夜、北平(現在の北京)中に戒厳令が敷かれる中、2118箱分の青銅器、陶磁器、書画、玉器、典籍などの文化財が軍隊の護衛の下、静かに紫禁城を離れ、10年余りの漂泊の旅を始めた。 

それから37年の七七事変と八一三事変により、南京に一時移されていた約100万点の国宝級の文化財は西遷への旅を余儀なくされた。北平から上海、南京、四川と数万に上る行程は中国の大半を横断した。故宮の職員は重い責務を担い、幾多の困難を乗り越え、文化財を戦火から遠く離れた奥地へ護送した。戦火が収まり、これらの国宝の大半はようやく無事に戻れた。一部の文化財は中国の台湾に運ばれ、現在の台北故宮博物院の所蔵品の基礎となった。これは中華民族共通の文化的記憶であり、海峡両岸が同じ根、同じ源流を持つ文化的な絆の証しである。 

紫禁城600年余り、故宮博物院100年の歴史の中で、文化財の南遷は文明の存続に関わる文化の防衛だった。戦火が広がり、国土が荒廃し、無数の国宝が戦乱の中を転々とした。それらを守ることは、民族の歴史的記憶と文化のルーツを守ることだったのである。 

この時期にフランスパリのルーブル美術館も「モナリザ」などの美術品の保護に頭を悩ませていた。大量の文化財と美術品が戦火の中で「散り散り」になり、45年に連合国軍の勝利が決定的になり、「モナリザ」はようやく「逃亡生活を終え」、ルーブルに帰れた。東西の文化の守護者たちは異なる方法で同じ使命を果たしたのだ。 

49年の新中国成立により、故宮博物院は新たな歴史の幕を開けた。中央政府は文化遺産の保護を特に重要視し、特別予算を設けて紫禁城の古建築の体系的な修復を実施した。それとともに国による割当(5)、社会からの寄贈、機関による徴収という三つの主要ルートによって故宮の所蔵体系は著しく完備されていった。 

改革開放後、故宮博物院は国際化に向けた発展の新たな段階を踏み出した。87年に故宮はユネスコの世界遺産に登録され、中国初の世界文化遺産となった。 

万里を越える文明の共鳴 

万里の道も遠からず、文明の光が互いを照らし合う。 

昨年、「紫禁城とヴェルサイユ宮殿――17~18世紀の中仏交流展」が北京で開催された。当時戦火を逃れ、さまざまな手段で文化財を守った中西の文化の守護者たちにとって、その後継者たちが紫禁城で文明の交流と相互参照という千年の美談を語り合うことなど想像もしていなかっただろう。 

中国の優れた伝統文化の集積地として、故宮博物院は開放的な姿勢を持って、他国の文化財を故宮で展示し、多様な形式の双方向的な交流を通じて中国外国文明の対話を絶えず推し進めている。 

故宮博物院は成立してから約30カ国の文化財と美術品を展示してきた。2023年の「譬若香山 ガンダーラ芸術展」では、パキスタンの七つの博物館と故宮博物院の逸品203点(セット)が展示され、来場者にガンダーラ文化の独特な芸術的魅力を伝えた。この展覧会の影響は大きく、同年10月21日の「中華人民共和国とパキスタンイスラム共和国の共同記者声明」に盛り込まれ、両国の文化交流協力の規範となった。 

科学技術が飛躍的に進歩する今日、デジタル技術は文明交流に全く新しいチャンスと変革をもたらした。22年、中日国交正常化50周年を記念し、故宮博物院は東京国立博物館、凸版印刷株式会社と連携し、東京国立博物館で特別デジタル展「故宮の世界」を開催した。これは故宮博物院が国外で開いた初のオールデジタル形式(6)の展覧会だ。「バーチャルリアリティー紫禁城」ミュージアムシアターは8Kの高精細3D映像で故宮の雄大さと美麗さを再現し、高画質『千里江山図』巻は縦51しかないオリジナルを高さ3以上の大画面モニターで躍動的に展示し、デジタルの姿で名品を日本に初披露した。23年に故宮は「デジタルシルクロード」プロジェクトを立ち上げ、デジタル技術によって世界各地に散らばる中国の文化財をクラウド上で再会させた。技術の革新が文化交流の方式を再構築し、文明の対話に時間と空間の制限を突破させている。 

今年5月、「生々流転――故宮文化クリエーティブグッズが国際連合へ」開幕式および故宮博物院創立100周年記念切手発表式典がニューヨークの国連本部で開かれた。国連郵便局が単独の博物館に特別イベント版切手を発行するのはこれが初めてで、中国の優れた伝統文化の世界における影響力が高まったことを示している。 

故宮は文化の展示と発信において輝かしい成果を収めているだけでなく、学術交流の面でも積極的に国際的な橋渡し役を買っている。22年8月に故宮博物院は万物の和合と文明の相互参照を意味する学術交流計画――「太和学者プログラム」を始動した。同プログラムは開始当初から「募集」と「派遣」を共に重視する双方向的メカニズム(7)を確立した。昨年末まで、プログラムは4大陸をまたぐ学術的な懸け橋として、計27人の国内外の学者を支援し、対象は14の国地域に及んでいる。 

故宮博物院100年の歴史は閉鎖から開放、守護から革新、中国から世界へ至る文明の交流史である。新たな100年のスタート地点に立ち、故宮はより開放的な姿勢で未来に向かっている。間もなく完成する故宮博物院北院区は北京の中軸線の延長線上に位置し、紫禁城とともに北と南と相成り、文化財を修復し展示する空間が大幅に拡張するばかりか、中華文明と世界文明の対話の新たな場となるだろう。 

世界一流の博物館、世界文化遺産保護の規範、文化と観光の融合のけん引役、文明の交流と相互参照のプラットフォームなど、次の100年に向けた故宮の新たな道のりはすでに始まっている。 

 

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