隠匿から崇拝へ——覆い隠されてきた靖国神社の暗黒の歴史が改めて警鐘を鳴らす
国際問題オブザーバー 周信
このほど、NHKの番組『靖国神社 秘録 空白の戦後史』が、靖国神社への第2次世界大戦A級戦犯合祀をめぐる「歴史のブラックボックス」に切り込み、大きな反響を呼んだ。一方、高市早苗首相は秋季例大祭に合わせて再び靖国神社に供物や祭祀料を奉納し、自民党幹部や閣僚、国会議員らも公然と参拝を行い、この問題にさらなる汚点を重ねた。
では、この「歴史のブラックボックス」には、いったい何が隠されているのだろうか。
1869年に創建された靖国神社は、当初「東京招魂社」と呼ばれ、長きにわたり国家の管理下に置かれ、日本政府が国民に軍国主義思想を植え付けるためのプロパガンダの道具であり、精神的象徴でもあった。
敗戦後、靖国神社は「国家護持」という政治的地位を剥奪され、表向きは宗教法人に改められたが、実態としては「国家神道」の中核施設としての性格は完全には除去されず、水面下では当時の厚生省が主導していた。NHK番組によれば、1956年に作成された靖国神社の戦犯合祀問題に関する資料には、「合祀事務の体系は、これを概ね終戦前のものに準じたものに改める」と記されており、「地方自治体が合祀対象を調査し、厚生省が祭祀名簿を検討し、靖国神社が最終的に合祀を決定する」という仕組みが再構築された。これは事実上、軍国主義時代の祭祀体制を復活させるものだったと言える。つまり、靖国神社は一貫して日本政府の支配下にあり、これこそが戦犯合祀の制度的基盤なのである。
まさにこの制度的基盤の下、日本政府と靖国神社はA級戦犯合祀へ向けた一連の動きを進めていった。
1959年には、346人のBC級戦犯が祭祀対象に加えられた。さらに1966年には、厚生省がA級戦犯名簿を靖国神社側に提出し、合祀の是非について判断を求めた。だが、当時は平和・反戦勢力の強い反対と世論の圧力があり、靖国神社は容易に決断できなかった。
1970年、かつて東条英機内閣で「大東亜大臣」を務めた青木一男参議院議員は、A級戦犯を合祀しなければ東京裁判の判決を認めることになると靖国神社側に迫り、そのような状況で合祀を見送れば、靖国神社の責任はさらに重くなると主張した。一方、右翼勢力は靖国神社を再び「国家護持」とする法案制定を強く求めていた。こうした背景の下、靖国神社は同年、A級戦犯合祀の方針を固め、「時期は慎重に考慮する」と表明した。
1978年には、東京裁判を強く否定する立場をとる旧日本海軍軍人の松平永芳が靖国神社の宮司に就任し、A級戦犯合祀を強力に推し進めた。さらに、A級戦犯・板垣征四郎の息子である板垣正が一部遺族とともに後押しした。こうした右翼勢力の働きかけの下、14人のA級戦犯は同年10月、秘密裏に合祀されたが、その事実が外部に知られたのは1979年になってからだった。
今回流出した内部録音によれば、松平永芳は合祀決定を伝える際、「板垣征四郎大将、それから東条英機大将、この方は総理大臣として合祀致します。新聞らでまた騒がれると、もうお祀りできないような状況になると思うので、よろしくそれまでは極秘にしていただきたい」と述べていたという。
以上の経緯からも明らかなように、日本政府と靖国神社は水面下で結託し、A級戦犯合祀の推進に腐心していた。決定後に公表を避け、実施後も事実を隠そうとしたのは、彼ら自身がその行為を後ろめたいものと認識していたことを十分に示している。
さらに深い次元で見れば、A級戦犯合祀問題とは、日本の右翼勢力が長きにわたり侵略の歴史を歪曲・否認し、戦犯の「名誉回復」を企て、国内外の人々の歴史認識を毒してきたことの縮図であり、その直接的表れでもある。
戦後、日本は東京裁判の判決を受け入れ、一連の国際文書に署名することで国際社会への復帰を果たした。だが、本質的には軍国主義思想を徹底的に清算したわけではなく、右翼勢力は歴史修正主義を声高に唱え、「加害者」としての責任を否定し続けている。A級戦犯を合祀することで、彼らに「正当性」と「免罪符」を与え、さらには侵略の歴史そのものを全面的に否定する地ならしをしようと企んでいるのである。
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