「中日友好の船」訪日エピソード(4) 三江平原開発における中日協力

2025-07-28 10:50:00

張雲方=文写真提供 

979年5月25日、東京と北海道の人々の熱意を携えて、「中日友好の船」代表団が田中角栄元首相の故郷である新潟に到着し、友好交流の新たな高まりを巻き起こした。日本の三宅正一衆議院副議長、西園寺公一日中友好協会顧問、小林進日中友好議員連盟副会長らも東京から新潟へ駆け付けた。 

田中元首相が新潟で深く敬愛されているのは、単に同地出身の初の「庶民派首相」であるという理由にとどまらない。彼は故郷の発展に多大な貢献をし、新潟を全国で初めて電化鉄道の導入に成功させ、日本海側地域の政治経済文化の中心地としての道を切り開いた。 

新潟は米どころとして知られており、「世界一おいしい米」と称される「コシヒカリ」は、新潟農業試験場で開発された品種だ。新潟の耕地の約8割は水田であり、日本全体の水稲面積の6~8%を占め、単位面積当たりの収穫量は国内最高水準である。 

また、新潟県の佐渡島は、日本の絶滅危惧種の鳥類トキ(朱鷺)の唯一の生息地だ。1970年代には日本産のトキはわずか7羽まで減少し、2003年には最後の純日本産トキが死んだ。中国は日本に対して7羽のトキを贈与している。1998年には江沢民国家主席が「友友」と「洋洋」というつがいを、2000年には朱鎔基総理が「美美」を提供。07年には温家宝総理が「華陽」と「溢水」を贈り、18年5月には李克強総理がさらに1組のトキを贈与した。これらの支援の結果として、佐渡島のトキは現在240羽以上にまで繁殖しており、これはまさに中日友好交流の成果の一つである。 

新潟では、「佐渡おけさ」で「中日友好の船」の中国人客を歓迎した。新潟県では、何世代にもわたって努力を重ね、湿地を水田に変えてきたという経験があり、それが代表団の面々に大きな感銘を与えた。 

廖公(廖承志氏)は旧友佐野藤三郎氏と再会し、喜びのあまり相手の手を固く握りしめ、「ありがとう、ありがとう!」と何度も口にした。佐野氏について語るならば、かつて中日間で行われた農業分野の大規模交流の一幕を語らずにはいられない。 

1971年、周恩来総理は、日本の新潟亀田郷における土地改良の様子を描いたドキュメンタリー『湛水地帯の記録』を見て、大いに啓発された。この作品は、広大な湿地を稲作地帯に変えた亀田郷の歩みを記録したものであり、同郷土地改良区の理事長であった佐野氏が、訪中した日本社会党の八百板正衆議院議員を通じて周総理に手渡したものである。 

周総理はこの映像を見て、中国東北部の三江平原の開発に思いを馳せ、農墾部(農業開発担当省庁)の王震部長を呼び寄せ、三江平原を科学的に開発する方法について協議した。新中国の歴史において、三江平原の開拓は58年に10万人の兵士を大規模に転業させて北大荒(黒龍江省の北東部)に送り込み、兵団農場を設立したことに端を発する。このとき、三江平原開発の第一の波が巻き起こった。その後、多くの知識青年が相次いでこの地に入り、開発事業に身を投じた。 

改革開放後、三江平原開発は新たな段階に入った。78年2月、孫平化氏が、日本の農民交流団を率いて来中した佐野氏に対し、三江平原開発への支援について語った。ほどなくして、王震副総理の招待に応じ、佐野氏と「中国帰国者友好会」事務局長の金丸千尋氏、そして新潟大学の土壌専門家ら技術チームが再び訪中した。この訪問の際、黒龍江省政府や中国農学会、農業科学院、土壌研究所と初歩的な協議がまとまり、日本政府のODA(政府開発援助)による資金提供と、中日両国政府による技術協力が進められることとなった。そのために、中国政府は日本政府宛に協力と支持をお願いする正式な公文書を発出した。 

79年の夏、佐野氏は農林省および新潟県亀田郷などからの専門家によって構成された12人の視察団を組織し、中国を訪れた。彼らは黒龍江省双鴨山市宝清県を試験地区とし、「龍頭橋ダム」の建設と、かんがい排水網の整備に着手した。 

三江平原の沼沢地面積は1500万に及び、これは亀田郷の湿地面積の1000倍に相当する。改良が必要な土地は、日本全国の農地(約450万)よりもはるかに多い。加えて、現地の気候は過酷であり、夏は30度に達する一方、冬は氷点下30度を下回る厳寒となる。こうした湿地や沼沢地の改造は、かつてない困難な課題であった。この間、7912月には日本の大平正芳首相が訪中し、日本国際協力事業団(JICA)に対して直接、三江平原開発の実現可能性調査を行うよう指示を出した。副総理の伊東正義氏をはじめ、農林水産省の浅原辰夫氏、外務省の柳井俊二氏らも、同プロジェクトに大きな支援を寄せた。80年、帰国前夜、私は日中文化交流協会の横川健氏の依頼を受け、中国側に参考資料として提供される中国語版プロモーションビデオ『亀田郷的昨天与今日(亀田郷の過去と現在)』の校正を手伝った。 

同年、佐野氏が中国に対し、地質調査用の精密機器「物理探査機」を贈ったことで、三江平原開発の重要プロジェクトである「桃山ダム」の建設は順調に進められることとなった。今日においても、桃山ダムは依然として排水とかんがいの面で大きな機能を発揮している。 

三江平原の沼沢地改良に当たって、日本の専門家たちは黒土の下に厚く堆積した「白膏膠泥層(粘土層)」を発見した。この層を改良しなければ、やがて肥沃(ひよく)な黒土地帯は耕作不能な膠泥地へと変貌してしまう。そこで、白膏膠泥を粉砕し、黒土と混合することで土壌を改良するという方法が提案された。しかし、この技術は極めて高度であり、作業量も膨大なものであったため、通常の機械ではこの膠泥層の粉砕は不可能であった。そこで佐野氏は熟慮の末、技術専門家である中山輝也氏を日本へ戻らせ、三菱社の鉱山用重機を投入することにした。その結果、黒土地帯の永続的な保存という問題は見事に解決された。 

中日両国の協力の下で進められた画期的な三江平原開発事業は、およそ20年にわたる努力の末、歴史的な成功を収めた。現在、三江平原は中日農業協力のモデル地域となり、水田面積は従来の7倍に拡大し、名実共に「米どころ」となった。 

7411月、佐野氏が初めて中国を訪れた際、廖公は彼に接見した。そして今回、新潟で再会した折、廖公はこう語った。「あなたは中国農業技術改革の師であり、中日友好の使者でもあります。中国人民は決してあなたのことを忘れません」。さらに、廖公は母何香凝氏が描いた絵を記念として佐野氏に贈った。廖公はこうも言った。「私の母は、かつて貴国で浮世絵画家の田中頼璋氏に師事していました。中日両国の文化は、まさに切っても切れぬ水のごとしなのです」  

関連文章