瀋陽 チャイナドレス発祥地 継承し革新重ね400年

2019-12-27 16:19:09

瀋陽市党委員会宣伝部=文・写真提供

中国の旗袍(満州族の長着・現在の日本でチャイナドレスと呼ばれているもののひな形)文化は清朝の国号が定まった1636年から始まり、今に至るまで400年近くの歴史を誇る。当時の清朝の都は盛京(現在の遼寧省瀋陽市)であったため、かつて同市は「旗袍の都」と呼ばれた。旗袍がどのように誕生し、広がり、発展・変化したのか? 旗袍文化はどのように今日まで続いてきたのか? 専門家はこの伝統文化をどのように考えているのか? 中国民族衣装の代表「旗袍」の歴史と現在、今後の展望を見てみよう。

 

民族の融合を体現した服

 清の第2代皇帝・皇太極(在位1627~43年)が1636年4月11日、文武諸官を率いて徳盛門外の天壇祭で国号を「大清国」とし、年号を崇徳と改元すると宣言した。皇太極はその後、帽子の飾りで官位を見分ける「朝帽(頂戴帽)」、身分や位を一目で分かるように色分けされた服を着る制度などを次々と整えていった。そこから旗袍は皇后や妃などをはじめとする旗人(清の社会・軍事組織「八旗」に所属する満州族の人々)のための定められた服装となり、そして満州族、漢民族共に着用する服装となった。瀋陽もこれにちなんで「旗袍の都」と呼ばれるようになった。

 

 旗袍という呼び名はもともと「旗人の着る服」を指した。「袍(長着)」は中国史上において多くの民族が上衣として着てきたものだったが、漢民族は身幅も袖幅もゆったりとした「深衣」を着ることが多く、対して満州族はもっぱら身幅も袖幅も狭めの「衣介」を着ていた。当時の清朝の人口構成は満州族を中心とし、漢民族や蒙古族などさまざまな民族が入り混じっていた。そこで、多民族文化の特徴をカバーし、満州族の新たなニーズに合った服をつくることが必要となった。

 

腰部分がゆったりとした清代の旗袍

 

広く大きい袖の「深衣」

 

旗袍は袍を上着として着る他民族の伝統に合致すると同時に、ゆったりとして着やすく、人々に広く受け入れられた。着丈は足首まであり、両脇を完全に縫い合わせる、もしくは裾に短い切れ込みを入れるのは漢民族の袍の特徴で、袖が長く、袖幅が広いのは蒙古族の袍の特徴。そして、袖幅が狭くて丈が長いのは満州族の袍の伝統だ。このように、当時の旗袍はさまざまな民族の服飾文化を反映していた。

 皇太極は服装にこだわりがあったため、服装の変革を強く推し、幾度もの勅令で旗袍のデザイン変更を急速に進め、旗袍は旗人以外の人々にも着られる服となり、全国に急速に普及していった。盛京に都があった間(1625~44年)は旗袍の生産量が非常に多かったため、官営の縫製場を建設して量産につとめた。

 

男女が着る服から女性が着る服へ

 盛京期の旗袍は男女が着る長い上衣の総称で、用途に合わせて単袍(裏地なし)や夾袍(裏地あり)、棉袍(綿入れ)、皮袍(皮革)がつくられた。またデザイン的にも、皇族の箭衣はスリットが四つで、官吏のスリットは二つという違いがあった。

 

棉袍(綿入れ)

 

夾袍(裏地あり)

 

単袍(裏地なし)

 

 康熙年間(1662~1722年)、貴婦人たちの間では黒襟に花丸文を金糸で刺しゅうした茶色の袍が流行した。乾隆年間(1736~96年)には女性たちの間でピンクの縁取に薄黄色をあしらった旗袍の上から如意紋をあしらったベストを合わせるコーディネートが流行する。清朝中後期の旗袍は次第に女性だけが着るものに変わっていった。嘉慶(1796~1820年)から道光年間(1821~50年)にかけて、旗袍の襟は低くなっていき、「雲肩」と呼ばれる肩掛けを組み合わせるようになった。同治年間(1862~74年)、着丈は次第に短くなるが袖幅は広がり、ターコイズブルーやピンクの地色が好まれた。光緒年間(1875~1908年)の女性の上衣は膝を覆うほどの着丈で、刺しゅうや縁取りを多用するデコラティブなものが好まれた。

 

如意紋をあしらったベスト

 

 1912年の中華民国成立以降、旗袍は新しい時代を迎え、現在私たちが目にする「チャイナドレス」へと変化していく。女性が着るものという概念はそのまま、デザインはよりシンプルに、色は上品になり、女性本来の自然な美しさを表現することに重きを置くようになった。また、北方と南方で地方色が異なった。

 北方のチャイナドレスは裾に向かってまっすぐに広がるAラインで、襟は低め、季節ごとの実用性を重視していた。素材は木綿、絹織物、毛織物で、色は灰色、青色などがあった。当時の女学生の制服や仕事着、結婚式の正装などはチャイナドレスが主体だった。当時、瀋陽のほとんどの家庭にはチャイナドレスづくりの名人がいて、均一な縫い目と個性的な飾り布ボタン、繊細な縁取りでテクニックを競った。

 南方では、社交などの場で着られる旗袍に重きが置かれていた。30年代の中頃にはチャイナドレスが大流行し、着丈が長くなり、スリットが高く、身体に沿ったシルエットが好まれた。40年代になると着丈が短くなるが襟が低くなり、袖丈はフレンチスリーブ程度までの短いものが流行、ノースリーブも見られるようになる。生地は北方よりも種類が多く、デザインも多岐に及んだため、庶民の普段着から芸能人の舞台衣装まで、幅広いシーンで着られていた。

 現代のチャイナドレスは、体の曲線を強調するタイトなシルエットに重きが置かれ、立体的な裁断と縫製で女性の曲線美をいっそう引き立てている。魯迅美術学院教授で、満州族服飾研究家の満懿氏は、「チャイナドレスは満州族女性の服から生まれましたが、時代に合わせ臨機応変に、柔軟に進化することで、時代の変化と女性の美的センスの変化をも体現しています」と述べた。

 

チャイナドレスを着た女子学生の広告

 

1940年代に流行した襟が低くフレンチスリーブのチャイナドレス

 

無形文化遺産の「満繍」

 旗袍は誕生から400年近くになるが、そのうち300年間近くは瀋陽が唯一の旗袍文化の中心だった。民国時代以降、旗袍はワンピーススタイルのチャイナドレスに変化して全国に広がったが、瀋陽の発祥の地と文化の中心地としての地位は変わらない。

 1929年、著名な作家である張恨水は張学良に招かれ瀋陽を訪れた。汽車を降りると、瀋陽からあふれる大都市の空気に驚いた。しかしその中でも彼を最も驚かせたのは、街にチャイナドレスを着た女性が多かった点だ。おしゃれで、現代的な瀋陽には昔から旗袍の縫製場があり、この町の女性たちに最も美しい服を提供していた。 

 96年、遼寧省新聞出版局の于金蘭局長は『中華旗袍』という本を出版した。当時、于局長はチャイナドレスに魅了され、瀋陽の知識人女性たちを集め、瀋陽で作られたさまざまなデザインのチャイナドレスを着てもらい、図像と文でチャイナドレスに関する文化を整理した。同書は、遼寧省で初めてとなるチャイナドレスに関する本となった。

 旗袍といえば、「満繍」についても触れなくてはならない。「満繍」とは、中国の無形文化遺産に指定されている、満州族の刺しゅうだ。皇太極が国号を「大清国」とした当時、民族名も女真族から満州族へ改名した。それ以降、清朝の宮廷刺しゅうと民間刺しゅうは全て満繍と呼ばれるようになった。龍を刺した「龍紋図案」は盛京満繍(宮廷刺しゅう)の大きな特徴で、駒取り刺しゅうに用いる金糸は、当時皇族だけが使えるものだった。また、清代に皇帝が着た龍袍や皇后・妃の衣装、官服には全て盛京満繍が施されており、図案によって階級や職務を表していたことも、盛京満繍の重要性を際立たせた。

 満繍で描かれる題材は幅広く、デザインも多種多様で、自然や動物などあらゆるものがモチーフとされる。また時には、中国の民間伝説や伝統演劇の登場人物、場面をテーマにし、さまざまな文様に吉祥の意を託し、人々の幸福や長寿を祈った。満繍には満州族の人々の森羅万象に対する愛と、より良い生活に対するあこがれの気持ちが反映されている。

 また、満繍は実用性も非常に高く、日常生活のあらゆるところに刺しゅうの存在がある。例えば、端午の節句や春節(旧正月)、生後満1カ月のお祝いの時に男の子に贈られる「虎頭帽」や「雲肩」、伝統的な腹掛けの「肚兜」、布靴、靴の中敷きなどさまざまなものに刺しゅうが施されており、小さなポシェット、ドアカーテン、布団皮などの日用品にも刺しゅうが施され、結婚式に花嫁の顔を覆う「蓋頭」や婚礼衣装などのおめでたい場にも刺しゅうは欠かせない。

 中国東方文化研究会旗袍専門委員会会長で、盛京満繍の4代目継承者の楊暁桐(満州族)さんは4歳から祖母のもとで皇族の刺しゅう技術を学び、楊さんの祖母は1921年に清朝最後の皇帝・溥儀の皇后・婉容の花嫁衣装を刺しゅうした。この数十年来、楊さんは刺しゅう技術と使用する材料を革新すると同時に、盛京満繍職業訓練の場として、大学で盛京満繍の授業も開講した。また、民間のベテラン職人に満州族の伝統的な歴史や文化を学び、民俗専門家と共同で満州族民俗書を整理・編さんし、盛京満繍の愛好家を増やすのに尽力した。彼女の努力により、満繍と瀋陽の名は世界に広がった。

 

楊暁桐さんの刺しゅうによる龍紋図案の作品

 

文化イベントで世界へ

 第1回中国チャイナドレス文化祭・『盛京1636』第3回瀋陽国際チャイナドレス文化祭が今年5月、盛大に行われた。同文化祭では、満繍、蘇繍(蘇州刺しゅう)、絵画、漢詩など中国の伝統文化を取り入れた1200点以上のさまざまなスタイルのチャイナドレスが、「身にまとう中国」としてお目見えした。

 また、チャイナドレスを着ていれば瀋陽故宮(清朝の離宮)と張氏帥府(張作霖と張学良の官邸)の入場料が無料になるイベントも行われ、2万人以上の市民と観光客が参加した。同文化祭開催に当たり、チャイナドレスに関する詩や歌詞などの作品を募集したところ、わずか3週間で1000万首以上の応募があった。同文化祭は、中国の悠久の歴史・文化に対する人々の情熱に火をともしただけでなく、瀋陽市そして遼寧省の伝統文化の奥深さも示した。

 同文化祭のサブイベントでは、チャイナドレスのファッション文化革新発展シンポジウムが開かれた。同シンポジウムでは、出席したゲストたちが「瀋陽発祥のチャイナドレスをより良く継承するとともに、革新・発展を続け、新しい時代の社会のニーズに絶えず応えていく」ことで一致した。前出の満州族服飾研究家の満懿氏は、「京劇に出てくる旗袍は主に清代のものなので、京劇の旗袍にスポットを当てたイベントを開催したらと思います。また最近、学校で漢服文化を普及するイベントが行われるようになってきているので、チャイナドレスのイベントももっと増えてもいいのではないでしょうか。多くの人がチャイナドレスは日常生活では着にくいと思っていますが、ゆったりとしたシルエットに改良したり、さまざまな素材を使うなど、より多用なデザインを提案していきます」と話した。

 今後、同市では瀋陽故宮や張氏帥府でチャイナドレスショーを定期的に開催し、「みんなで着るチャイナドレス」「母のためにつくるチャイナドレス」などのイベントを開催する。その他、さまざまな分野から「チャイナドレス人材」を広く受け入れ、優秀なデザイナーや画家、写真家、研究者などを同市に誘致し、「チャイナドレスの都」としてのブランドをより強化していく。

 

1回中国チャイナドレス文化祭でランウェイを歩くチャイナドレスを着たモデル

 

1回中国チャイナドレス文化祭の開幕式が瀋陽故宮で開かれた

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