蚕種渡来を記念する祭り(上) 始皇帝の子孫と忌宮神社

2020-10-21 14:33:39

王敏=文

 

王敏

日本アジア共同体文化協力機構参与

国立新美術館評議委員

治水神・禹王研究会顧問

法政大学名誉教授

拓殖大学・昭和女子大学客員教授

 

山口県下関市長府宮内町にある忌宮神社では毎年3月28日、盛大な「蚕種祭」が催される。境内にある高さ約6㍍の「蚕種渡来之地」と書かれた記念碑の前に祭壇が設けられ、日本全国各地から各界の人々が集う。祭壇に白、黄、薄緑など色とりどりの繭を供え、それから漢詩や和歌を朗詠し、地元女性による昔ながらの生糸つむぎや機織りなどの手作業を見学する。儀式が終わると、主催者は煎茶、繭の形の真っ白な和菓子、神社特製の季節のかゆで来賓をもてなす。幸いなことに筆者は2016年に「蚕種祭」に参加することができた。

 

忌宮神社の歴史

忌宮神社は第14代仲哀天皇(在位192~200年)の行宮の跡に建てられた。仲哀天皇は192年、九州南部で大和朝廷に反抗していた「熊襲」の平定に赴いた。翌年、穴門(かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ「長門国」の古称)に行宮「豊浦宮」を建て、そこで7年間政務を執った。

仲哀天皇9(200)年、天皇が筑紫の香椎で亡くなると、神功皇后は三韓を征伐し、凱旋した後、豊浦宮で仲哀天皇を祭り、同年12月14日に筑紫で皇子(後の第15代応神天皇)を出産した。その後、第45代聖武天皇(在位724~749年)の時代に、豊浦宮の跡に神功皇后と応神天皇も奉斎するようになった。仲哀天皇を祭る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祭る神殿を「忌宮」、応神天皇を祭る神殿を「豊明宮」と称し、三殿別立となっていたが、中世のころ、火災により「忌宮」に合祀したため、「忌宮」と呼ばれるようになり、現在に至る。こうして、忌宮神社は「文武の神、勝運の神、安産の神」として庶民から代々信仰されるようになった。

 

蚕種の渡来

「蚕種祭」と忌宮神社との関わりは、仲哀天皇時代に始まる。平安時代に編さんされた歴史書『日本三代実録』によると、仲哀天皇4(195)年に秦の始皇帝第11代の子孫「功満王」(功徳王ともいう)が小国「弓月国」の国王として下関を訪れ、天皇に貴重な贈り物――カイコの卵を献上した。これにより、豊浦宮は蚕種渡来の地となり、下関も日本の養蚕の発祥地およびシルクロードの東端の入り口となった。このことから「渡来人」という言葉も生まれた。渡来人とは、4~7世紀頃、朝鮮半島や中国などから日本に移住した人々を指す。彼らは先進的な学問や技術、文化をもたらし、日本の社会の発展と文明の開化に決定的な役割を果たした。

紀元前2000年頃の長江・淮河流域の生産状況を反映した中国最古の農事暦『夏小正』によると、早くも殷(商)・周の時代(紀元前17世紀頃~紀元前256年)に、民間の養蚕業は大きな発展を遂げていた。1984年、河南省滎陽市青台村にある新石器時代の仰韶文化の遺跡から、紀元前3500年頃の絹織物が発見された。今から3000年余り前の殷代には、カイコを示す甲骨文字がすでに現れていた。中国は蚕種および養蚕を国外へ伝えることを制限していなかったが、周辺の国々はそれを非常に大切にし、国家機密と見なし、容易に域外に伝えなかった。玄奘の『大唐西域記』および欧陽修の『新唐書・西域伝』は次のような物語に触れている。クスターナ国(現在の新疆ウイグル自治区ホータン)の国王は蚕種を得るために、隣国の東国(地理的位置から東国は楼蘭古国だと考えている研究者もいる)の公主をめとった。公主は蚕種を帽子の中に隠してこっそりと王宮から持ち出した。クスターナ国はこうして養蚕・絹織物業を有するようになったという。20世紀初め、新疆ウイグル自治区タクラマカン砂漠にあるダンダン・ウィリクというシルクロードの都市遺跡で発見された1世紀頃の木版画に、この物語が描かれていた。

余談はさておき、本題に入ろう。『日本三代実録』に登場する秦の始皇帝第11代の子孫「功満王」がカイコの卵を持って日本に帰化した時期は、ちょうど後漢最後の皇帝・献帝の興平2(195)年に当たり、秦の滅亡(紀元前206年)からすでに400年以上経過していた。始皇帝の子孫は当時どのように暮らしていたのか? どうして異国に移住したのか? また、どのようにカイコの卵を日本に持ってきたのか?

 

忌宮神社に建てられた「蚕種渡来之地」の記念碑(写真提供・王敏)

 

弓月国渡来人に関する伝説

北宋時代の歴史書『資治通鑑』によると、始皇帝の子孫の一部は今の中央アジアのカザフスタン内に位置する弓月国に暮らしていた。弓月国は天山山脈の北側にあり、東部は新疆ウイグル自治区と接し、南部はキルギスタンと接し、シルクロードの北方ルートにおける重要都市だった。当時の中国は、ちょうど後漢時代。『後漢書・東夷伝』によると、後漢は勢力拡大にしたがって、多くの周辺の異民族を征服し、苦役として万里の長城の建設に参加させた。弓月国の人々もその中に含まれていた。その後、多くの人々が苦役に耐え切れなくなり、朝鮮半島や日本などに次々と落ち延びた。

弓月国の人々もこのような背景の下、中国の東北地方から朝鮮半島へと逃げ込んだ。『後漢書』巻85「東夷列伝・三韓」には、「弁韓と辰韓は雑居し、城や服は同じだが、言語や風習は異なる」という記載がある。古代朝鮮の歴史書『三国史記』の記載と合わせると、この「弁韓」はどうやら弓月国の人々だと考えることもできる。朝鮮半島にやって来た彼らの言語や風習は現地の人々ともちろん異なっていた。また、大量に流入した弓月国の人々は、原住民と資源や利益を巡ってさまざまな紛争を引き起こした。加えて、当時は利用可能な土地に限りがあったため、彼らは政治面でも排斥や抑圧を受けることになった。やむを得ず、彼らは引き続き東へ移動することを余儀なくされてしまった。

彼らを率いて日本に渡ったのが功満王の息子「弓月君」だ。『新撰姓氏録』では融通王とも称される。『日本書紀』によると、弓月君は283年に、百済(紀元前18年~660年)から127県(1県は約150人)計1万8670人を率いて、日本に移住した。当時はちょうど応神天皇(仲哀天皇の息子)の統治時代だ。シルクロード上の重要都市から来た弓月君とその国民は、父親の功満王が当時献上したカイコの卵だけでなく、他の分野の先進技術や優れた文化をももたらした。応神天皇にとって、彼らを受け入れることは良い事ずくめだった。一方、弓月君にとって、国民が数々の苦難やつらい旅路を経て安住の地を見つけたことは、安らかに暮らし楽しく働くという夢が実現したということだった。

定住後、弓月君に従って渡来した人々は養蚕や紡織、かんがい、建築などに従事し始めた。『新撰姓氏録』の「山城国諸蕃・漢・秦忌寸」によると、彼らが織った絹織物は柔らかくて滑らかな「肌」のようだったため、応神天皇は彼らに「肌」と同じ発音の「波多」という姓を賜った(「波多」の古音はハダ、後にハタに変化)。また、中国から伝わった紡織機が日本語で「はた(機)」ということから、養蚕・紡織に従事する人々の姓も「ハタ」となり、漢字では「秦」「太秦」「羽田」などと書かれた。その後、仁徳天皇の時代には「秦酒公」などの姓を賜り、雄略天皇の時代には「禹都萬佐」などの姓を賜った。

  
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